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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 95

ページ: 95

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【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十二 【本文】       を待(ま)つとか、 兎(と)に角(かく)一 時(じ)敵軍(てきぐん)を此処(こゝ)に噛留(くいとめ)むればよいとか、 云(い)ふような他(た)に目的(もくてき)のある場合(ばあひ)は相当(さうとう)に        功(こう)を奏(そう)するのであるが外(ほか)に何(な)にも当(あ)てのないのに只(た)だ〳〵籠城(らうじよう)の一 点張(てんば)りは結局(けつきよく)座(ざ)して滅亡(めうばう)を待(ま)つに        外(ほか)ならぬ事となるのである御承知(ごせうち)の通(とほ)り曩(さき)に謙信(けんしん)が小田原(をだはら)に侵入(しんにふ)した時(とき)又(ま)た其(その)後(のち)信玄(しんげん)が来(きた)つた時(とき)は全(まつた)       く今度(このたび)とは事情(じぜう)が違(ちが)ふので之(これ)は孰(いづ)れも北條氏(ほうでうし)が籠城策(らうじようさく)で成功(せいこう)したのであるが其(その)時(とき)は云(い)ふ迄(まで)もなく謙信(けんしん)        信玄(しんげん)共(とも)に其(その)計画(けいくわく)が深(ふか)く敵地(てきち)に侵入(しんにふ)する程(ほど)の仕組(しくみ)でなかつたので、 云(い)はゞ深入(ふかい)りを仕過(しす)ぎたのであるか       ら敵(てき)に籠城(らうじよう)せられても糧食(れうしよく)は続(つゞ)かず後顧(こうこ)の患(うれひ)は益々(ます〳〵)多(おほ)いと云(い)ふので到底(とうてい)長居(ながゐ)は出来(でき)ぬ始末(しまつ)であつたが        今度(このたび)秀吉(ひでよし)は既(すで)に殆(ほとん)ど満天下(まんてんか)を切(き)り従(したが)へ只(た)だ残(のこ)す所(ところ)は関東(くわんとう)と奥羽(おうう)のみであるので更(さら)に後顧(こうこ)の患(うれひ)はないの       みならず上天子(かみてんし)を戴(いたゞ)き天下(てんか)の大軍(たいぐん)に指揮(しき)して押寄(おしよ)せたのであるから云(い)ふ迄(まで)もなく其(その)準備(じゆんび)は十 分(ぶん)である        従(したがつ)て今日(こんにち)となつては到底(とうてい)北條氏(ほうでうし)の籠城(らうじよう)によつて他(た)から急(きふ)に秀吉(ひでよし)の虚(きよ)を窺(うかゞ)ふが如(ごと)きものが出(い)でそうな       事はないのである然(しか)るにソンナ事を当(あて)にして居(を)つたならばそれこそ実(じつ)に空頼(そらだの)みと云(い)ふもので結局(けつきよく)滅亡(めつばう)       の外(ほか)はないと思(おも)ふのであるが独(ひと)り戦争(せんそう)の事のみならず世間(せけん)の事(こと)皆(みな)此(かく)の如(ごと)くならざるはないので歴史研(れきしけん)        究(きう)の趣味(しゆみ)は誠(まこと)に無限(むげん)のものであると信(しん)ずるのである 《割書:家康関東に|移封せらる》  サテ小田原(をだはら)滅亡(めつばう)の後(のち)一 変動(へんどう)とも云ふべきのは徳川氏(とくがはし)の移封(いほう)である独(ひと)り之(これ)は徳川氏(とくがはし)に取(と)つて変動(へんどう)である       のみでなく我(わが)豊橋(とよはし)を初(はじ)め此(この)地方(ちほう)の歴史(れきし)に取(と)つて一 大区画(たいくぐわく)をなすものであると思(おも)ふ即(すなは)ち徳川氏(とくがはし)が今度(このたび)駿(すん)        遠(ゑん)三 甲信(かうしん)の五 国(こく)から関東(くわんとう)八 州(しう)へ移封(いほう)されるに就(つい)ては私(わたくし)が之(こ)れまで長(なが)き間(あひだ)史談(しだん)を継続(けいぞく)して来(き)た中(なか)に段(だん)        段(だん)と申述(もうしの)べた武将(ぶせう)等(ら)も悉(こと〴〵)く同時(どうじ)に此(この)地方(ちほう)と関係(くわんけい)が離(はな)るゝ事(こと)になるのであるから何(なん)だか歴史(れきし)の上(うへ)が新(あらた)に       なるような心持(こゝろもち)がするのである実(じつ)は前(まへ)にも申述(もうしの)ぶるのを漏(もら)したようであるが家康(いへやす)は曩(さき)に駿遠(すんゑん)三三ケ国(こく)の        外(ほか)に甲信(かうしん)二 国(こく)を得(え)たに就(つい)ては其(その)根拠(こんきよ)が浜松(はまゝつ)では都合(つごふ)がよくないと云ふ処から天正十四年の九月 頃(ごろ)より 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        今川氏(いまがはし)の旧居(きうきよ)たる駿河(するが)の府中(ふちう)に移転(いてん)する準備(じゆんび)をして同(どう)十五年には城(しろ)の修築(しうちく)を初(はじ)め其(その)五月 頃(ごろ)には出来上(できあが)       つたと云ふ次第(しだい)で之(これ)を以(もつ)て五ケ国の根拠(こんきよ)としたのである然(しか)るに今度(このたび)イヨ〳〵小田原城(をだはらじよう)滅亡(めつばう)に就(つい)て秀吉(ひでよし)       は家康(いへやす)を封(ほう)ずるに関東(くわんとう)八 州(しう)を以(もつ)てしたので徳川氏(とくがはし)の一 類(るゐ)は此(この)父祖(ふそ)の国(くに)を離(はな)れねばならぬ事となつたの       である之(これ)には徳川方(とくがはがた)に於(おい)ても余程(よほど)弱(よは)つたものと思(おも)はれるのであるか三 河物語(かはものがたり)にも此(この)事(こと)に就(つい)て         又(また)家康(いへやす)は国(くに)かへ可成被(なさるべく)におひては関東(くわんとう)にかへ給(たま)へ、いやに思召(おぼしめさ)が御無用成(ごむようなり)、 何(なん)となり共(とも)御存分(ごぞんぶん)次第(しだい)        と被仰(おほせられ)ければ尤(もつとも)かへ可申(もうしべく)と被仰(おほせられ)て三 河(かは)遠江(とほとふみ)駿河(するが)甲州(かうしう)信濃(しなの)五ケ国(こく)に伊豆(いづ)相模(さがみ)武蔵(むさし)上野(こうづけ)下総(しもをさ)上総(かづさ)六ケ国(こく)        にかへさせられて関東(くわんとう)へ庚寅(かのへとら)の年(とし)うつらせ給(たま)ふ       と書(か)いてある之(これ)で見(み)ると此(この)時(とき)の秀吉(ひでよし)の権幕(けんまく)と云ふものは余程(よほど)エラかつたものと見(み)えるのであるが御承(ごせう) 《割書:織田信雄信|濃に放たる》   知(ち)の如(ごと)く当時(とうじ)織田信雄(をたのぶを)は尾張(おはり)伊勢(いせ)に替(か)ゆるに徳川氏(とくがはし)の旧領(きうれう)駿遠参甲信(すんゑんさんこうしん)の五ケ国(こく)を以(もつ)てせられたのであ       る然(しか)るに之(これ)に不服(ふゝく)を唱(とな)へたので秀吉(ひでよし)は怒(いか)つて直(たゞ)ちに信雄(のぶを)に与(あた)へんと言(い)ふた五ケ国(こく)までも没収(ぼつしう)して之(これ)を        信濃(しなの)に逐(お)つたと云ふ訳(わけ)であるから此(こ)の勢(いきほひ)では家康(いへやす)に対(たい)しても三 河物語(かはものがたり)に書(か)いてある位(くらゐ)の事(こと)は云つた       ものであると思(おも)はれる、トコロがソコは家康(いへやす)である快(こゝろよ)く国替(くにがへ)を承知(せうち)したのみならず根拠地(こんきよち)に就(つい)ては        秀吉(ひでよし)の意見(いけん)を聴(き)いて初(はじ)めて江戸(えど)と定(さだ)めたのであるが其(その)上(うへ)に着々(ちやく〳〵)国替(くにがへ)の手続(てつゞき)を運(はこ)むで早速(さつそく)旧領(きうれう)五ケ国(こく)を 《割書:家康国替の|迅速》   引渡(ひきわた)したので秀吉(ひでよし)も其(その)迅速(じんそく)なる事に驚(おどろ)いたと云ふ事であるが兎(と)に角(かく)其(その)将士(せうし)一 同(どう)も父祖(ふそ)伝来(でんらい)の故国(ここく)を去(さ)       つて新領地(しんれうち)に就(つ)く事であるから其(その)混雑(こんざつ)と云ふものは名状(めいぜう)すべからざるものがあつたであろうと思(おも)ふ家(いへ)        忠日記(たゞにつき)の記事(きじ)によるも当時(とうじ)の有様(ありさま)は目(ま)のあたり見(み)るようであるが家忠(いへたゞ)の如(ごと)きも七月十一日に北條氏政(ほうでううぢまさ)       兄弟(けうだい)の自裁(じさい)したのを見(み)て其(その)十六日に江戸(えど)へ向(むか)ひ十八日に着(ちやく)したが廿一日には直(す)ぐに故国(ここく)参河に引(ひ)き返(かへ)       したのである其(その)廿日の記事(きじ)に 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十二 【本文】 を待つとか、とにかく一時敵軍をここに食い止めればよいとか、言うような他に目的のある場合は相当に功を奏するのであるが、他に何にも当てのないのにただただ籠城の一点張りは結局座して滅亡を待つに外ならない事となるのである。御承知の通り、昔に謙信が小田原に侵入した時、またその後信玄が来た時は全く今度とは事情が違うので、これはいずれも北条氏が籠城策で成功したのであるが、その時は言うまでもなく謙信、信玄共にその計画が深く敵地に侵入するほどの仕組みでなかったので、言わば深入りをし過ぎたのであるから、敵に籠城されても糧食は続かず後顧の憂いはますます多いということで、到底長居は出来ない始末であった。 今度秀吉は既にほとんど満天下を切り従え、ただ残す所は関東と奥羽のみであるので、更に後顧の憂いはないのみならず、上天子を戴き天下の大軍に指揮して押し寄せたのであるから、言うまでもなくその準備は十分である。 従って今日となっては、到底北条氏の籠城によって他から急に秀吉の虚を窺うが如きものが出でそうな事はないのである。然るにそんな事を当てにしていたならば、それこそ実に空頼みというもので、結局滅亡の外はないと思うのであるが、独り戦争の事のみならず世間の事皆このようにならざるはないので、歴史研究の趣味は誠に無限のものであると信ずるのである。 さて小田原滅亡の後一変動とも言うべきは徳川氏の移封である。独りこれは徳川氏にとって変動であるのみでなく、我が豊橋を初めこの地方の歴史にとって一大区画をなすものであると思う。すなわち徳川氏が今度駿遠三甲信の五国から関東八州へ移封されるについては、私がこれまで長き間史談を継続して来た中に段段と申し述べた武将等も悉く同時にこの地方と関係が離れる事になるのであるから、何だか歴史の上が新たになるような心持がするのである。 実は前にも申し述べるのを漏らしたようであるが、家康は昔に駿遠三三ヶ国の外に甲信二国を得たについては、その根拠が浜松では都合がよくないという処から、天正十四年の九月頃より 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる知識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 今川氏の旧居たる駿河の府中に移転する準備をして、同十五年には城の修築を初めその五月頃には出来上がったという次第で、これを以って五ヶ国の根拠としたのである。然るに今度いよいよ小田原城滅亡について秀吉は家康を封ずるに関東八州を以ってしたので、徳川氏の一類はこの父祖の国を離れねばならない事となったのである。 これには徳川方においても余程弱ったものと思われるのであるか、三河物語にもこの事について 「また家康は国替え成さるべくにおいては関東に替え給え、嫌に思し召しが御無用なり、何となりとも御存分次第」 と仰せられければ「尤も替え申すべく」と仰せられて、三河遠江駿河甲州信濃五ヶ国に、伊豆相模武蔵上野下総上総六ヶ国に替えさせられて関東へ庚寅の年移らせ給う。 と書いてある。これで見るとこの時の秀吉の権幕というものは余程偉かったものと見えるのであるが、御承知の如く当時織田信雄は尾張伊勢に替ゆるに徳川氏の旧領駿遠参甲信の五ヶ国を以ってせられたのである。然るにこれに不服を唱えたので、秀吉は怒って直ちに信雄に与えんと言った五ヶ国までも没収してこれを信濃に逐ったという訳であるから、この勢いでは家康に対しても三河物語に書いてある位の事は言ったものであると思われる。 ところがそこは家康である。快く国替えを承知したのみならず、根拠地については秀吉の意見を聴いて初めて江戸と定めたのであるが、その上に着々国替えの手続きを運んで早速旧領五ヶ国を引き渡したので、秀吉もその迅速なる事に驚いたという事であるが、とにかくその将士一同も父祖伝来の故国を去って新領地に就く事であるから、その混雑というものは名状すべからざるものがあったであろうと思う。 家忠日記の記事によるも当時の有様は目のあたり見るようであるが、家忠の如きも七月十一日に北条氏政兄弟の自裁したのを見て、その十六日に江戸へ向かい十八日に着いたが、二十一日には直ぐに故国三河に引き返したのである。その二十日の記事に 【欄外】 豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Tokugawa Clan's Transfer to Kantō) - 162 [Main Text] ...if there were other purposes such as waiting for relief forces or simply holding the enemy here temporarily, it would be quite effective. However, relying solely on castle sieges without any other prospects ultimately amounts to nothing more than sitting and waiting for destruction. As you know, when Kenshin invaded Odawara in the past, and later when Shingen came, the circumstances were completely different from this time. In both cases, the Hōjō clan succeeded with siege tactics, but at those times, needless to say, neither Kenshin nor Shingen had plans for deep penetration into enemy territory. In other words, they had ventured too far, so when the enemy adopted siege tactics, their provisions could not continue and their rear concerns multiplied, making it impossible to remain for long. This time, Hideyoshi had already subdued almost the entire realm, with only Kantō and Ōu remaining, so he had no rear concerns whatsoever. Moreover, bearing the imperial authority and commanding the great armies of the realm in his advance, his preparations were naturally complete. Therefore, at this point, there was no possibility that anyone would suddenly exploit Hideyoshi's weaknesses while the Hōjō clan was under siege. If they relied on such possibilities, it would truly be vain hope, ultimately leading to nothing but destruction. This applies not only to military matters but to all worldly affairs, which is why I believe the fascination of historical research is truly infinite. Now, what might be called a great upheaval following Odawara's fall was the Tokugawa clan's transfer. This was not only a major change for the Tokugawa clan but also marked a great dividing line in the history of our Toyohashi and this region. Namely, as the Tokugawa clan was now transferred from the five provinces of Suruga, Tōtōmi, Mikawa, Kai, and Shinano to the eight provinces of Kantō, all the military commanders I have gradually described in continuing these historical discussions over such a long period would simultaneously lose their connection to this region, giving me the feeling that history itself was being renewed. Actually, I seem to have omitted mentioning this earlier, but when Ieyasu had gained the two provinces of Kai and Shinano in addition to the three provinces of Suruga, Tōtōmi, and Mikawa, since Hamamatsu was inconvenient as a base, from around the ninth month of Tenshō 14... [Header note about Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku's work on city history compilation] [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to San'yō Shimbun readers. [Main Text] ...he began preparations to move to Fuchū in Suruga, the former residence of the Imagawa clan. In the same fifteenth year, castle repairs began and were completed around the fifth month, making this the base for the five provinces. However, when Odawara castle finally fell, Hideyoshi enfeoffed Ieyasu with the eight provinces of Kantō, so the Tokugawa clan had to leave their ancestral lands. This must have greatly troubled the Tokugawa side, as the Mikawa Monogatari records: "Also, if Ieyasu is to change domains, let him go to Kantō. There is no need for reluctance - whatever is your wish." When thus commanded, he replied "Most certainly I shall change," and the five provinces of Mikawa, Tōtōmi, Suruga, Kōshū, and Shinano were exchanged for the six provinces of Izu, Sagami, Musashi, Kōzuke, Shimōsa, and Kazusa, and he moved to Kantō in the year of Kōin (1590). From this, one can see that Hideyoshi's authority at this time was quite formidable. As you know, Oda Nobuo was to exchange Owari and Ise for the Tokugawa clan's former territories of the five provinces Suruga, Tōtōmi, Mikawa, Kai, and Shinano. However, when he expressed dissatisfaction with this, Hideyoshi became angry and immediately confiscated even the five provinces he had promised to give Nobuo, banishing him to Shinano. Given this momentum, it seems likely that Hideyoshi spoke to Ieyasu in terms similar to those recorded in the Mikawa Monogatari. But that was Ieyasu. He not only cheerfully agreed to the domain transfer but also listened to Hideyoshi's opinion regarding his base and decided on Edo for the first time. Moreover, he proceeded steadily with the domain transfer procedures and promptly handed over his former five provinces, so that even Hideyoshi was amazed by such swiftness. In any case, since all his retainers had to leave their ancestral homeland and take up new territories, the confusion must have been indescribable. From the records in the Ietada Diary, one can see the situation of that time as if witnessing it directly. Even someone like Ietada, after seeing the suicide of the Hōjō Ujimasa brothers on the eleventh day of the seventh month, headed for Edo on the sixteenth day, arrived on the eighteenth day, but immediately returned to his old domain of Mikawa on the twenty-first day. The record for the twentieth day states... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Tokugawa Clan's Transfer to Kantō) - 163