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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 96

ページ: 96

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【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十四 【本文】         雨降(あめふり)明日三州へ帰候(かへりそろ)へし由(よし)御意候(ぎよいそうろ)御国(おんくに)かはり女子(ぢよし)引越(ひきこし)の事也(ことなり)       としてある即(すなは)ち此(この)時(とき)は既(すで)に国替(くにがへ)の事が定(さだ)まつて引越(ひきこし)の用意(ようい)で急(きう)に帰国(きこく)する事となつたものと見(み)へる然(しか)       るに家忠(いへたゞ)は途中(とちう)で病気(びようき)であつたのに途(みち)を急(いそ)いで八月五日 己(おの)れの城地(じようち)なる三 河(かは)の深溝(ふかうず)に着(ちやく)して居(を)る而(しか)し       て其十八日には既(すで)に用意(ようい)を整(とゝの)へて関東(くわんとう)へ出発(しゆつぱつ)したのであるが廿六日ヨウ〳〵江戸(えど)に着(ちやく)した処で使(し)を以(もつ)       て忍(おし)の城(しろ)を仰付(おほせつけ)られたとある而(しか)も廿九日には自(みづか)ら忍(おし)に入(い)つて松平周防守(まつだひらすばうのかみ)から城(しろ)を受取(うけと)つたのであるか       ら其他(そのた)の諸将(しよせう)も大概(たいがい)は先(ま)づコンナ模様(もよう)で大急(おほいそ)ぎに移転(いてん)し終(をは)つたものと思(おも)はれるモツトモ家康(いへやす)の新領地(しんれうち)       は関東(くわんとう)八 州(しう)とは云ふものゝ安房(あは)には里見氏(さとみし)あり下野(しもつけ)には宇都宮氏(うつのみやし)があつて家康(いへやす)の直轄(ちよくかつ)は六 州(しう)丈(だけ)である       が其(その)内(うち)にも尚(な)ほ結城(ゆうき)とか佐野(さの)とか皆川(みながは)とか云ふような諸氏(しよし)が割拠(かつきよ)して其(その)上(うへ)に北條氏(ほうでうし)の残党(ざんとう)は諸方(しよはう)に潜(せん)        伏(ぷく)して居(を)るので実(じつ)に統括(とうかつ)には困難(こんなん)したものであつたろうと思(おも)ふ併(しか)し秀吉(ひでよし)から云ふと頗(すこぶ)る妙策(みようさく)を行(おこな)つた 《割書:秀吉の諸侯|配置策》   訳(わけ)で家康(いへやす)には関東(くわんとう)を与(あた)へたものゝ会津(あひづ)に蒲生氏郷(かばふうぢさと)を封(ほう)じて其(その)背後(はいご)を押(おさ)へ徳川氏(とくがはし)の故国(ここく)には己(おの)れが腹心(ふくしん)       のものを配置(はいち)して尾張(をはり)伊勢(いせ)をば秀次(ひでつぐ)に与(あた)へ近江(あふみ)の佐和山(さわやま)に石田三成(いしだかづしげ)を置(お)き大和(やまと)には秀長(ひでなが)を置(お)くと云ふ        次第(しだい)で其(その)配置(はいち)と云ふものは実(じつ)に用意(ようい)周到(しうとう)を極(きは)めたものである 《割書:東参河に於|ける諸将士》  ソコで家康(いへやす)は其(その)将士(せうし)に此(この)六 州(しう)の地(ち)を分与(ぶんよ)したのであるがそれは此(この)八月廿三日に発表(はつぴよう)したようである其(その) 《割書:の分封| 》 《割書:酒井家次上|州碓井に移》   内(うち)で東(ひがし)三 河(かは)に関係(くわんけい)のある人々に就(つい)て申述(もうしの)べて見(み)ると先(ま)づ此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)であつた酒井家次(さかゐいへつぐ)は上州(ぜうしう)碓井城(うすゐじよう) 《割書:る    | 》  三万石に封(ほう)せられ二連木(にれんぎ)の城主(じようしゆ)松平(まつだひら)(《割書:戸|田》)丹波守康長(たんばのかみやすなが)は武蔵国(むさしのくに)東方(ひがしかた)壹万石に其(その)頃(ころ)吉田(よしだ)に居(を)つた戸田左(とださ)        門一西(もんかづあき)即(すなは)ち今(いま)の戸田伯爵(とだはくしやく)(《割書:旧大|垣侯》)の祖先(そせん)は武蔵国(むさしのくに)久志羅井(くしらゐ)五千石に又(ま)た牛久保(うしくぼ)の牧野右馬允康成(まきのうまのぜうやすなり)は上州(ぜうしう)大(おほ)        胡(ご)弐万石に仝(どう)牧野讃岐守康成(まきのさぬきのかみやすなり)は武蔵(むさし)石戸(いしど)五千石に封(ほう)せられ其(その)他(た)深溝(ふかうず)の松平家忠(まつだひらいへたゞ)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く        武蔵(むさし)の忍(おし)一万石に又(ま)た奥平信昌(おくだひらのぶまさ)は上州(ぜうしう)宮崎(みやざき)弐万石、 本多広孝(ほんだひろたか)は上州(ぜうしう)白井(しらゐ)二万石、 菅沼小大膳定利(すがぬませうだいぜんさだとし)は上(ぜう) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百二十二号附録    ( 明治四十四年十一月廿八日発行 ) 【本文】        州(しう)吉井(よしゐ)二万石、 松平玄蕃頭清宗(まつだひらげんばのかみきよむね)は武蔵(むさし)八 幡山(はたやま)一万石、 菅沼山城守定政(すがぬまやましろのかみさだまさ)は下総(しもをさ)相馬(さうま)一万石、 菅沼新(すがぬましん)八 郎(らう)        定盈(さだみつ)は上州(ぜうしう)阿布(あふ)一万石、 本多縫殿助康俊(ほんだぬひどのすけやすとし)は下総(しもをさ)佐倉領(さくられう)五千石、 戸田(とだ)三 郎右衛門忠次(らううゑもんたゞつぐ)は伊豆(いづ)下田(しもだ)五千石        西郷孫(さいごうまご)九 郎家員(らういへかづ)は下総(しもをさ)小弓(こゆみ)五千石、 設楽甚(したらじん)三 郎貞通(らうさだみつ)は武蔵(むさし)礼羽(れは)三千石と云(い)ふような訳(わけ)に封(ほう)せられたの       である尚(なほ)其(その)外(ほか)に井伊直政(ゐいなをまさ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)などを初(はじ)め孰(いづ)れも相当(さうとう)に領地(れうち)を与(あた)へられたのであるが兎(と)に角(かく)前(まへ)に申(もうし)        述(の)べた人々は此(この)豊橋(とよはし)の地(ち)を中心(ちうしん)として之(こ)れ迄(まで)東(ひがし)三 河(かは)の内(うち)に根拠(こんきよ)を置(お)き又(また)は終始(しうし)此(この)地方(ちほう)に関係(くわんけい)のあつた       もので之迄(これまで)長々(なが〳〵)私(わたくし)の申述(もうしの)べ来(きた)つた各種(かくしゆ)の戦役(せんえき)を初(はじ)め東三河の歴史(れきし)に関係(くわんけい)を有(ゆう)せる人々であるが之(これ)等(ら)       が多年(たねん)住(す)み馴(な)れた三河を去(さ)つて之(これ)から関東(くわんとう)の開拓(かいたく)にかゝつたのであるから三河と関東(くわんとう)との関係(くわんけい)と云ふ 《割書:江戸は三河|の粋を集め》  ものは誠(まこと)に浅(あさ)からざる次第(しだい)であると思(おも)ふ従(したがつ)て其(その)中心(ちうしん)たる今(いま)の東京(とうけう)即(すなは)ち当時(とうじ)の江戸(えど)と云ふものは実(じつ)に 《割書:たるもの | 》  三河の粋(すゐ)を集(あつ)めた処であると云つても差支(さしつかへ)なき状態(ぜうたい)であつた事と信ずるのである 奥羽の平定 サテそれより秀吉(ひでよし)は自(みづか)ら進(すゝ)むで奥羽(おうゝ)に臨(のぞ)むだのであるが伊達政宗(だてまさむね)の如きは秀吉(ひでよし)が小田原(をだはら)対陣中(たいぢんちう)既(すで)に伺(し)        候(こう)して皈服(きふく)したと云ふ次第(しだい)であるから此(この)方面(はうめん)も忽(たちまち)の中(うち)に平定(へいてい)し其(その)処分(しよぶん)をも終(をは)つて八月廿三日に凱旋(がいせん)       の途(と)に就(つい)き江戸(えど)鎌倉(かまくら)を経(へ)夫(それ)より矢張(やはり)東海道(とうかいどう)を上(のぼ)つて九月に至(いた)り京師(けうし)に皈(かへ)つたのである其後(そのゝち)奥羽(おうゝ)地方(ちほう)に       は又々(また〳〵)小乱(せうらん)があつたが蒲生氏郷(がまふうぢさと)浅野長政(あさのながまさ)等(ら)が豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に従(したがつ)て之(これ)を征服(せいふく)し之(これ)で先(ま)づ天下(てんか)は初(はじ)めて平定(へいてい)       したと云ふ訳(わけ)になつたので実(じつ)に長(なが)い間(あひだ)の戦国(せんごく)状態(ぜうたい)も此処(こゝ)に一 大段落(だいだんらく)を告(つ)げた次第(しだい)であるが尚(なほ)此処(こゝ)に少(すこ)       しく御話(おはなし)して置(お)きたいのは秀吉(ひでよし)の検地(けんち)であるモツトモ検地(けんち)の事は織田信長(をたのぶなが)が既(すで)に之(これ)を行(おこな)つたと云ふ説(せつ)       があるが之(これ)には明瞭(めいれう)なる証拠(せうこ)がないようである然(しか)るに秀吉(ひでよし)は漸(やうや)く天下(てんか)を一 統(とう)せむとするに方(あた)つて全国(ぜんこく) 秀吉の検地 に亘(わた)つて此(この)検地(けんち)を行(おこな)つたもので旧来(きうらい)諸国(しよこく)に於(おい)て区々(くゝ)なる算法(さんぽう)を以(もつ)て土地(とち)又(また)は貢米(ぐまい)等(とう)を計算(けいさん)して居(をつ)たの       を同時(どうじ)に一 定(てい)しようと計(はか)つたものであるが其(その)時(とき)の新法(しんぽう)は曲尺(かねじやく)六尺三寸を以(もつ)て一 歩(ぶ)とし三十 歩(ぶ)を一 畝(せ)と 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十四 【本文】 「雨降り、明日三州へ帰り候べし由御意候、御国替え女子引越しの事なり」 としてある。すなわちこの時は既に国替えの事が定まって、引越しの用意で急に帰国する事となったものと見える。然るに家忠は途中で病気であったのに道を急いで八月五日自分の城地なる三河の深溝に着いている。そしてその十八日には既に用意を整えて関東へ出発したのであるが、二十六日ようやく江戸に着いた処で使いを以って忍の城を仰せ付けられたとある。しかも二十九日には自ら忍に入って松平周防守から城を受け取ったのであるから、その他の諸将も大概は先ずこんな模様で大急ぎに移転し終わったものと思われる。 もっとも家康の新領地は関東八州とは言うものの、安房には里見氏あり、下野には宇都宮氏があって、家康の直轄は六州だけであるが、その内にも尚結城とか佐野とか皆川とか言うような諸氏が割拠して、その上に北条氏の残党は諸方に潜伏しているので、実に統括には困難したものであったろうと思う。 しかし秀吉から言うと頗る妙策を行った訳で、家康には関東を与えたものの、会津に蒲生氏郷を封じてその背後を押さえ、徳川氏の故国には自分が腹心のものを配置して、尾張伊勢をば秀次に与え、近江の佐和山に石田三成を置き、大和には秀長を置くという次第で、その配置というものは実に用意周到を極めたものである。 そこで家康はその将士にこの六州の地を分与したのであるが、それはこの八月二十三日に発表したようである。その内で東三河に関係のある人々について申し述べて見ると、先ずこの吉田の城主であった酒井家次は上州碓井城三万石に封せられ、二連木の城主松平(戸田)丹波守康長は武蔵国東方一万石に、その頃吉田にいた戸田左門一西、すなわち今の戸田伯爵(旧大垣侯)の祖先は武蔵国久志羅井五千石に、また牛久保の牧野右馬允康成は上州大胡二万石に、同牧野讃岐守康成は武蔵石戸五千石に封せられ、その他深溝の松平家忠は前にも申し述べた如く武蔵の忍一万石に、また奥平信昌は上州宮崎二万石、本多広孝は上州白井二万石、菅沼小大膳定利は上 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百二十二号附録 (明治四十四年十一月二十八日発行) 【本文】 州吉井二万石、松平玄蕃頭清宗は武蔵八幡山一万石、菅沼山城守定政は下総相馬一万石、菅沼新八郎定盈は上州阿布一万石、本多縫殿助康俊は下総佐倉領五千石、戸田三郎右衛門忠次は伊豆下田五千石、西郷孫九郎家員は下総小弓五千石、設楽甚三郎貞通は武蔵礼羽三千石という訳に封せられたのである。 なおその外に井伊直政、本多忠勝などを初め、いずれも相当に領地を与えられたのであるが、とにかく前に申し述べた人々は、この豊橋の地を中心として、これまで東三河の内に根拠を置き、または終始この地方に関係のあったもので、これまで長々私の申し述べ来た各種の戦役を初め東三河の歴史に関係を有する人々であるが、これ等が多年住み馴れた三河を去ってこれから関東の開拓にかかったのであるから、三河と関東との関係というものは誠に浅からざる次第であると思う。従ってその中心たる今の東京、すなわち当時の江戸というものは、実に三河の粋を集めた処であると言っても差し支えなき状態であった事と信ずるのである。 【奥羽の平定】さてそれより秀吉は自ら進んで奥羽に臨んだのであるが、伊達政宗の如きは秀吉が小田原対陣中既に伺候して帰服したという次第であるから、この方面も忽ちの内に平定し、その処分をも終わって八月二十三日に凱旋の途に就き、江戸、鎌倉を経、それより矢張り東海道を上って九月に至り京師に帰ったのである。その後奥羽地方にはまたまた小乱があったが、蒲生氏郷、浅野長政等が豊臣秀次に従ってこれを征服し、これで先ず天下は初めて平定したという訳になったので、実に長い間の戦国状態もここに一大段落を告げた次第であるが、なおここに少しく御話しして置きたいのは秀吉の検地である。 もっとも検地の事は織田信長が既にこれを行ったという説があるが、これには明瞭なる証拠がないようである。然るに秀吉は漸く天下を一統せんとするに方って全国に亘ってこの検地を行ったもので、旧来諸国において区々なる算法を以って土地または貢米等を計算していたのを同時に一定しようと計ったものであるが、その時の新法は曲尺六尺三寸を以って一歩とし、三十歩を一畝と 【秀吉の検地】 【欄外】 豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Tokugawa Clan's Transfer to Kantō) - 164 [Main Text] "Rain falling, tomorrow shall return to Sanshū by your lordship's command - this concerns the domain transfer and women's relocation." From this, it appears that the domain transfer had already been decided at this time, and he had to return home urgently to prepare for the move. Although Ietada was ill on the journey, he hurried along the road and arrived at his castle town of Fukōzu in Mikawa on the fifth day of the eighth month. On the eighteenth day, having already made preparations, he departed for Kantō, finally arriving in Edo on the twenty-sixth day, where he was appointed to Oshi Castle through a messenger. Moreover, on the twenty-ninth day, he personally entered Oshi and received the castle from Matsudaira Suō-no-kami, so it seems that most other generals completed their transfers in similar haste. Although Ieyasu's new territory was called the eight provinces of Kantō, the Satomi clan controlled Awa and the Utsunomiya clan controlled Shimotsuke, so Ieyasu's direct control extended to only six provinces. Even within these, various clans such as Yūki, Sano, and Minagawa still held separate territories, and moreover, remnants of the Hōjō clan were hiding throughout the region, making administration truly difficult. However, from Hideyoshi's perspective, this was quite a clever strategy. While he gave Kantō to Ieyasu, he enfeoffed Gamō Ujisato in Aizu to control his rear, placed his own trusted retainers in the Tokugawa clan's former domains, gave Owari and Ise to Hidetugi, stationed Ishida Mitsunari at Sawayama in Ōmi, and placed Hidenaga in Yamato - this arrangement was extremely well-planned and thorough. So Ieyasu distributed the lands of these six provinces among his retainers, which he announced on the twenty-third day of the eighth month. Regarding those connected to eastern Mikawa: first, Sakai Ietsugu, who had been lord of Yoshida castle, was enfeoffed with 30,000 koku at Usui Castle in Kōzuke; Matsudaira (Toda) Tanba-no-kami Yasunaga, lord of Nirengi castle, received 10,000 koku in eastern Musashi; Toda Samon Kazuaki, who was in Yoshida at that time and ancestor of the present Count Toda (former lord of Ōgaki), received 5,000 koku at Kushirai in Musashi; Makino Uma-no-jō Yasunari of Ushikubo received 20,000 koku at Ōgo in Kōzuke; Makino Sanuki-no-kami Yasunari received 5,000 koku at Ishido in Musashi; and others - Matsudaira Ietada of Fukōzu received 10,000 koku at Oshi in Musashi as mentioned earlier; Okudaira Nobumasa received 20,000 koku at Miyazaki in Kōzuke; Honda Hirotaka received 20,000 koku at Shirai in Kōzuke; Suganuma Sho-daizen Sadatoshi received... in upper [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3922 Supplement (Published November 28, 1911) [Main Text] ...province Yoshii 20,000 koku; Matsudaira Genba-no-kami Kiyomune received 10,000 koku at Hatayama in Musashi; Suganuma Yamashiro-no-kami Sadamasa received 10,000 koku at Sōma in Shimōsa; Suganuma Shinhachirou Sadamitsu received 10,000 koku at Abu in Kōzuke; Honda Nui-no-suke Yasutoshi received 5,000 koku in the Sakura domain in Shimōsa; Toda Saburōemon Tadatsugu received 5,000 koku at Shimoda in Izu; Saigō Magokyūrō Iekazu received 5,000 koku at Koyumi in Shimōsa; and Shitara Jinsaburō Sadamichi received 3,000 koku at Reha in Musashi. In addition to these, Ii Naomasa, Honda Tadakatsu, and others all received appropriate territories. In any case, the people I mentioned earlier had their bases within eastern Mikawa, centered around this Toyohashi area, or were consistently connected to this region throughout - these were the people involved in the various battles and eastern Mikawa history that I have described at length. Since these individuals left Mikawa, where they had lived for many years, to undertake the development of Kantō, the relationship between Mikawa and Kantō is truly profound. Therefore, I believe that the center of this - present-day Tokyo, or Edo as it was then called - was indeed a place that gathered the essence of Mikawa. [Pacification of Ōu] From there, Hideyoshi personally advanced to face Ōu, but since Date Masamune had already submitted during Hideyoshi's siege of Odawara, this region was also quickly pacified. Having completed the arrangements, he began his triumphal return on the twenty-third day of the eighth month, passing through Edo and Kamakura, then ascending the Tōkaidō as usual, returning to the capital in the ninth month. Later, there were small disturbances in the Ōu region, but Gamō Ujisato, Asano Nagamasa, and others followed Toyotomi Hidetugi and conquered these, finally achieving the first complete pacification of the realm. Thus, the long period of warring states came to a major conclusion, but I would like to discuss Hideyoshi's land surveys here. [Hideyoshi's Land Surveys] Although there are theories that Oda Nobunaga had already conducted land surveys, there seems to be no clear evidence for this. However, as Hideyoshi was about to unify the realm, he conducted these land surveys throughout the entire country, attempting to standardize the various calculation methods that different provinces had used for land and tribute rice. The new system established one bu as six shaku and three sun of the curved ruler, and one se as thirty bu... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Tokugawa Clan's Transfer to Kantō) - 165