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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 97

ページ: 97

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【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十六 【本文】       し三百 歩(ぶ)を一 段(たん)とし十段を以て一町としたのである併(しか)し尚(な)ほ旧来(きうらい)の久(ひさ)しき因襲(いんしう)の為(ため)にドウモ一時には        改革(かいかく)が出来(でき)なかつたものゝようであるが此(この)吉田(よしだ)地方(ちほう)へは天正十七年の十一月頃に彦坂小刑部(ひこさかこぎようぶ)と云ふ人 《割書:彦坂小刑部|文書》  が来(き)て久(ひさ)しく滞在(たいざい)し検地(けんち)をもし又た年貢(ねんぐ)の納方(おさめかた)などをも触(ふ)れたのである此(この)彦坂小刑部(ひこさかこぎようぶ)の文書(ぶんしよ)は今(いま)小松(こまつ)        原(ばら)の東観音寺(ひがしくわんおんじ)に三 通(つう)残(のこ)つて居(を)るが其(その)中(うち)二 通(つう)は東観音寺(ひがしくわんおんじ)の住職(じうしよく)に当(あ)てた手紙(てがみ)で一 通(つう)は定法(でうはう)を書(か)いたもの       である而(しか)して孰(いづ)れも当時(とうじ)の事情(じぜう)が分るので参考(さんこう)になるべきものであると思(おも)ふ        ●補遺(●●)   酒井忠次夫人寄進(●●●●●●●●)の(●)画像(●●)に(●)就(●)て(●)          曩(さき)に「酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と東(ひがし)三 河(かは)の諸士(しよし)」と云ふ処で酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の夫人(ふじん)が寄進(きしん)せられた其(その)母堂(ぼどう)の画像(ぐわぞう)が豊橋市         吉屋 龍拈寺(りうねんじ)に遺(のこ)つて居ることを一寸申述べて置いたか其(その)時(とき)にも述(の)べ置(お)いた如く忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふの         は世(よ)に光樹夫人(くわうじゆふじん)と呼(よ)ばれた人で松平清康(まつだひらきよやす)の女であるから此(この)画像(ぐわぞう)は即(すなは)ち清康(きよやす)の夫人(ふじん)であることは明(あきらか)で         あるが清康(きよやす)の夫人(ふじん)と云ふのは三 度(たび)替(かは)つたので先(ま)づ第一は松平弾正左衛門入道昌安(まつだひらだんぜうさゑもんにふどうまさやす)の女であるが之(これ)         は大永四年 清康(きよやす)十四歳の時(とき)に此(この)昌安入道(まさやすにふどう)の山中(やまなか)の城(しろ)を抜(ぬ)き更(さら)に岡崎城(をかざきじよう)を攻(せ)めた時(とき)に昌安(まさやす)は遂(つひ)に敵(てき)         し難(がた)くて城(しろ)を明渡(あけわた)して和(わ)を請(こ)ひ其(その)女(ぢよ)春姫(はるひめ)を以(もつ)て清康(きよやす)に娶(めやは)したと云ふのが之(これ)である然(しか)るに琴瑟(きんひつ)の和(わ)         せざるものがあつて清康(きよやす)は後(のち)に青木筑後守貞景(あおきちくごのかみさだかげ)と云ふ人の女(ぢよ)を以(もつ)て夫人(ふじん)とせられたが其(その)腹(はら)に広忠(ひろたゞ)         が生(うま)れたのであるトコロが此(この)夫人(ふじん)は産後(さんご)がよくなくて遂(つひ)に逝去(せいきよ)せられたので清康(きよやす)は更(さら)に大河内左(おほかうちさ)          衛門尉元網(ゑもんじようもとつな)の養女(やうぢよ)を以(もつ)て夫人(ふじん)とせられたのが三 人目(にんめ)の夫人(ふじん)である此処(こゝ)から推及(すゐきふ)すると光樹夫人(くわうじゆふじん)の          母(はゝ)と云ふのは即(すなは)ち此(この)人(ひと)であると云ふ事を確信(かくしん)せらるゝのであるが併(しか)し確実(かくじつ)にそれと記録(きろく)したもの         は見当(みあた)らぬのであるモツトモ此(この)元網(もとつな)の養女(やうぢよ)と云ふ人に就(つい)ては旧来(きうらい)種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があつて俗説(ぞくせつ)には色々(いろ〳〵)         な事を伝(つた)へて居(を)るが初(はじ)め水野忠政(みづのたゞまさ)に嫁(か)して離縁(りえん)となりそれから清康(きよやす)の処(ところ)へ嫁(か)せられたのは事実(じじつ)で 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         あると信(しん)ずる而(しか)して彼(か)の伝通院(でんつうゐん)即(すなは)ち水野忠政(みづのたゞまさ)の女で初(はじ)め広忠(ひろたゞ)の夫人(ふじん)となつて家康(いへやす)を生(う)まれた方(かた)は          矢張(やはり)此(この)人(ひと)の所生(しよせい)であると云ふ説(せつ)が多(おほ)く記(しる)されてある且(か)つ此(この)人(ひと)は世(よ)に秀(ひい)でたる美人(びじん)であつたので清(きよ)          康(やす)は巳(おの)れより四歳も年長(ねんてう)であつたのに此(この)夫人(ふじん)を懇望(こんぼう)し尾張国宮(をはりのくにみや)の城主(じようしゆ)岡本善七郎秀成(をかもとぜんたらうひでなり)の計(はか)らひで          娶(めと)つたのであると云ふ説(せつ)も伝(つた)はつて居(を)るが三 河志(かはし)の中(なか)に将軍(せうぐん)外戚伝(ぐわいせきでん)を引用(ゐんよう)して頗(すこぶ)る此(この)人(ひと)の事に就(つい)         て要領(えうれう)を得(え)たる記事(きじ)があるそれに依(よ)ると此(この)人(ひと)は名(な)を於富(おとみ)の方(かた)と云つて清康(きよやす)に嫁(か)せられた後(のち)一女一         男を生(う)まれたと記(しる)してある併(しか)し此(この)人(ひと)の養父(やうふ)たる大河内元網(おほかうちもとつな)と云ふ人は桃井(もゝゐ)の大河内系(おほかうちけい)であるが大(おほ)          河内(かうち)子爵家(ししやくけ)に伝(つた)はつて居る系譜(けいふ)によると元網(もとつな)の養女(やうぢよ)を満姫(みつひめ)としてあつて其(その)経歴(けいれき)の中(なか)には往々(おう〳〵)将軍(せうぐん)          外戚伝(ぐわいせきでん)にある於富(おとみ)の方(かた)の記事(きじ)と齟齬(そご)する点(てん)がある此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)でドウモ未(いま)だ十 分(ぶん)なる事が申述(もうしのべ)ら         れぬのであるが兎(と)に角(かく)龍拈寺(りうねんじ)の画像(ぐわぞう)なるものは容貌(やうばう)其(その)他(た)種々(しゆ〳〵)の関係(くわんけい)から推(お)すも只今(たゞいま)申述(もうしの)べた如(ごと)く          元網(もとつな)の養女(やうぢよ)たりし人で清康(きよやす)最後(さいご)の夫人(ふじん)であるに相違(さうゐ)ないと思(おも)ふ殊(こと)に其(その)画像(ぐわぞう)と云ふものは大(おほい)に見(み)る         べきものであつて貴重品(きちようひん)たるを失(うしな)はぬ事と思(おも)ふが此頃(このごろ)私(わたくし)は岡崎町(をかざきてう)に催(もよほ)された教育品展覧会(けふいくひんてんらんくわい)に参(まゐ)         つて同町(どうてう)の隨念寺(ずいねんじ)から出品(しゆつひん)した清康(きよやす)の画像(ぐわぞう)を郷土史料(けうどしれう)の部(ぶ)に於(おい)て見(み)たが之(これ)は彼(か)の清康(きよやす)が是(ぜ)の字(じ)の          夢(ゆめ)を見(み)た時(とき)に画(ゑが)かしめたものであるとの事であるから恐(おそら)くは其(その)二十三歳頃の像(ぞう)であろうが其(その)時代(じだい)         は勿論(もちろん)画風(ぐわふう)が龍拈寺(りうねんじ)所蔵(しよざう)夫人(ふじん)の像(ぞう)と最(もつと)も相類(あひるい)して居(を)るので実(じつ)に云(い)ふべからざる感想(かんさう)に打(う)たれたの         であるモツトモ清康(きよやす)像(ぞう)の方(はう)が余程(よほど)古(ふる)いので無論(むろん)同時(どうじ)に出来(でき)たものでない事は明(あきらか)であるがサリト         テ又(ま)た其(その)間(あひだ)に大(たい)なる年代(ねんだい)の相違(さうゐ)がないものと思(おも)はるゝのみならず或(あるひ)は同(どう)一 画家(ぐわか)の筆(ひで)になつたもの         ではなかろうかと思(おも)はるゝ程(ほど)であつて此(この)両者(れうしや)を対照(たいせう)するのは無限(むげん)の趣味(しゆみ)があるものと思(おも)ふのであ         る 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十六 【本文】 し、三百歩を一段とし、十段を以て一町としたのである。しかし、なお旧来の長い慣習のために、どうも一時には改革ができなかったもののようであるが、この吉田地方へは天正十七年の十一月頃に彦坂小刑部という人が来て長く滞在し、検地をも行い、また年貢の納め方なども布告したのである。この彦坂小刑部の文書は今小松原の東観音寺に三通残っているが、その内二通は東観音寺の住職に宛てた手紙で、一通は定法を書いたものである。そしていずれも当時の事情が分かるので参考になるべきものであると思う。 【補遺 酒井忠次夫人寄進の画像について】 先に「酒井忠次と東三河の諸士」という処で、酒井忠次の夫人が寄進された、その母堂の画像が豊橋市吉屋龍拈寺に遺っていることを一寸申し述べて置いたが、その時にも述べ置いた如く、忠次の夫人というのは世に光樹夫人と呼ばれた人で松平清康の女であるから、この画像は即ち清康の夫人であることは明らかであるが、清康の夫人というのは三度替わったので、先ず第一は松平弾正左衛門入道昌安の女であるが、これは大永四年清康十四歳の時に、この昌安入道の山中の城を抜き、更に岡崎城を攻めた時に、昌安は遂に敵し難くて城を明け渡して和を請い、その女春姫を以て清康に嫁がせたというのがこれである。然るに琴瑟の和せざるものがあって、清康は後に青木筑後守貞景という人の女を以て夫人とされたが、その腹に広忠が生まれたのである。ところが、この夫人は産後の具合がよくなくて遂に逝去されたので、清康は更に大河内左衛門尉元網の養女を以て夫人とされたのが三人目の夫人である。ここから推察すると、光樹夫人の母というのは即ちこの人であるという事を確信されるのであるが、しかし確実にそれと記録したものは見当たらぬのである。もっとも、この元網の養女という人については旧来種々の説があって、俗説には色々な事を伝えているが、初め水野忠政に嫁して離縁となり、それから清康の処へ嫁せられたのは事実で 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる智識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 あると信ずる。そして、かの伝通院即ち水野忠政の女で、初め広忠の夫人となって家康を生まれた方は、矢張りこの人の所生であるという説が多く記されてある。かつ、この人は世に秀でたる美人であったので、清康は己れより四歳も年長であったのに、この夫人を懇望し、尾張国宮の城主岡本善七郎秀成の計らいで娶ったのであるという説も伝わっているが、三河志の中に将軍外戚伝を引用して頗るこの人の事について要領を得たる記事がある。それによると、この人は名を於富の方といって、清康に嫁せられた後一女一男を生まれたと記してある。しかし、この人の養父たる大河内元網という人は桃井の大河内系であるが、大河内子爵家に伝わっている系譜によると元網の養女を満姫としてあって、その経歴の中には往々将軍外戚伝にある於富の方の記事と齟齬する点がある。このような次第で、どうも未だ十分なる事が申し述べられぬのであるが、とにかく龍拈寺の画像なるものは、容貌その他種々の関係から推すも、只今申し述べた如く元網の養女たりし人で、清康最後の夫人であるに相違ないと思う。殊にその画像というものは大いに見るべきものであって、貴重品たるを失わぬ事と思うが、この頃私は岡崎町に催された教育品展覧会に参って、同町の隨念寺から出品した清康の画像を郷土史料の部において見たが、これは彼の清康が是の字の夢を見た時に画かしめたものであるとの事であるから、恐らくはその二十三歳頃の像であろうが、その時代は勿論、画風が龍拈寺所蔵夫人の像と最も相類似しているので、実に言うべからざる感想に打たれたのである。もっとも清康像の方が余程古いので無論同時にできたものでない事は明らかであるが、さりとて又その間に大なる年代の相違がないものと思われるのみならず、或いは同一画家の筆になったものではなかろうかと思われる程であって、この両者を対照するのは無限の趣味があるものと思うのである。 【欄外】 豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Tokugawa Clan's Transfer to Kantō) - 166 [Main Text] ...and 300 bu made one tan, with ten tan constituting one chō. However, due to long-standing customs, complete reform could not be accomplished immediately. In the Yoshida region, around the eleventh month of Tenshō 17 (1589), a person named Hikosaka Ko-gyōbu came and stayed for an extended period, conducting land surveys and also issuing proclamations about methods of tribute payment. Three documents from this Hikosaka Ko-gyōbu remain at Higashi Kannon Temple in Komatsubara today - two are letters addressed to the head priest of Higashi Kannon Temple, and one records the established regulations. All of these provide insight into the circumstances of that time and should serve as valuable references. [Supplement: Regarding the Portrait Donated by Sakai Tadatsugu's Wife] Earlier, in the section on "Sakai Tadatsugu and the Warriors of Eastern Mikawa," I briefly mentioned that a portrait of her mother, donated by Sakai Tadatsugu's wife, remains at Ryūnen Temple in Yoshiya, Toyohashi City. As I noted at that time, Tadatsugu's wife was known as Lady Kōju and was a daughter of Matsudaira Kiyoyasu, so this portrait is clearly of Kiyoyasu's wife. However, Kiyoyasu had three wives in succession. The first was the daughter of Matsudaira Danjō Saemon Nyūdō Masayasu. In Daiei 4 (1524), when Kiyoyasu was fourteen years old, he captured Masayasu Nyūdō's castle at Yamanaka and then attacked Okazaki Castle. Masayasu, finding resistance impossible, surrendered the castle, sued for peace, and gave his daughter Princess Haru in marriage to Kiyoyasu. However, there was marital discord, and Kiyoyasu later took the daughter of Aoki Chikugo-no-kami Sadakage as his wife, who bore Hirotada. This wife, however, suffered complications after childbirth and eventually died, so Kiyoyasu then took the adopted daughter of Ōkōuchi Saemon-no-jō Mototsuna as his third wife. From this, one can confidently conclude that Lady Kōju's mother was this person, though no definitive records exist to confirm this. Various theories about Mototsuna's adopted daughter have persisted, with folk tales relating various stories. It is believed factual that she first married Mizuno Tadamasa, divorced, and then married Kiyoyasu. [Header note] Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi City history for over a year, and now as the manuscript nears completion... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of San'yō Shimbun [Main Text] I believe this to be true. Many records state that the famous Dentsu-in - Mizuno Tadamasa's daughter who first became Hirotada's wife and gave birth to Ieyasu - was also this woman's child. Moreover, since this woman was renowned for her exceptional beauty, despite being four years older than Kiyoyasu, he earnestly desired her as his wife and married her through the arrangements of Okamoto Zenshichirō Hidenari, lord of Miya Castle in Owari Province. The Mikawa-shi contains a quite comprehensive account of this person, citing the Shōgun Gaiseki-den (Record of the Shogun's Maternal Relatives). According to this, she was named Lady Otomi and bore one daughter and one son after marrying Kiyoyasu. However, her adoptive father Ōkōuchi Mototsuna was of the Momoi branch of the Ōkōuchi lineage, and according to the genealogy preserved by the Ōkōuchi Viscount family, Mototsuna's adopted daughter was called Princess Mitsu, and there are often discrepancies in her biographical details with the account of Lady Otomi found in the Shōgun Gaiseki-den. Given these circumstances, I cannot yet provide a complete account, but in any case, I believe the portrait at Ryūnen Temple, judging from its appearance and various other factors, is undoubtedly of the person who was Mototsuna's adopted daughter and Kiyoyasu's final wife, as I have just described. This portrait is particularly worthy of viewing and retains its value as a precious artifact. Recently, I attended an educational exhibition held in Okazaki town and saw a portrait of Kiyoyasu displayed in the local historical materials section, contributed by Zuinen Temple of that town. This is said to be a portrait painted when Kiyoyasu had his dream of the character "ze" (是), so it is probably from when he was around twenty-three years old. Not only is it from the same period, but the artistic style is most similar to that of the lady's portrait preserved at Ryūnen Temple, leaving me with indescribable impressions. Although Kiyoyasu's portrait is considerably older and clearly not created at the same time, there doesn't seem to be a great difference in their periods, and they may even be by the same artist. Comparing these two works offers infinite fascination. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Tokugawa Clan's Transfer to Kantō) - 167