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【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百六十八
【本文】
⦿池田輝政と吉田
サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く徳川氏(とくがはし)は関東(くわんとう)に移封(いほう)せらるゝ事となつて東(ひがし)三 河(かは)に長(なが)く根拠(こんきよ)を搆(かま)へて居(を)つた処
《割書:池田輝政吉|田に封せら》 の其(その)諸将(しよせう)も悉(こと〳〵)く関東(くわんとう)に移転(いてん)したのであるが其(その)後(のち)此(この)吉田城(よしだじよう)には酒井氏(さかゐし)に代(かは)つて池田輝政(いけだてるまさ)が封(ほう)せられて
《割書:る | 》 美濃(みの)の岐阜(ぎふ)から移(うつ)り来(きた)つたのである其(その)時(とき)の禄高(ろくだか)は十五万二千石であつたが吉田城(よしだじよう)は云ふ迄(まで)もなく其(その)根(こん)
伊木清兵衛 拠(きよ)で田原(たはら)牛久保(うしくぼ)などの城(しろ)も亦(ま)た領内(れうない)であつたが田原城(たはらじよう)には家臣(かしん)伊木清兵衛(いきせいべゑ)と云ふ人を置(お)き牛久保城(うしくぼじよう)に
《割書:荒尾平左衛|門》 は又た同(おな)じ家臣(かしん)の荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)と云ふ人を置(お)いたのである而(しか)して此(この)時(とき)輝政(てるまさ)が荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)に与(あた)へた知(ちぎ)
行方目録(ようかたもくろく)の写(うつし)と云ふものが牛久保密談記(うしくぼみつだんき)の中(なか)に載(の)つて居(を)るが左(さ)の通(とほ)りである
知 行 方 目 録
一六百八十四石七斗五升 牛 久 保
一千百二石八斗四升 長 山
一六百三十六石七斗二升 多 米
一六十七石一斗九升 赤 岩
一四百三十七石一斗九升 大 草
一七十八石一斗三升 手 洗
都 合 三 千 石 余
天正十八年十月廿八日 照 政
荒 尾 平 左 衛 門 殿
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百二十八号附録 ( 明治四十四年十二月五日発行 )
【本文】
《割書:二連木廃城|となる》 之(これ)で見(み)ると以上(いぜう)の諸村(しよそん)を平左衛門(へいざゑもん)が知行(ちぎよう)として居(を)つたものと見(み)へるが兼(かね)て御承知(ごせうち)の二 連木城(れんぎじよう)には此(この)時(とき)
別(べつ)に人を置(お)いた様子(ようす)が見(み)へぬので其(その)廃城(はいじよう)となつたのは此(この)時(とき)からであると信(しん)ぜられるのであるソコで一
貫高と石高 寸 御話(おはなし)して置(お)きたいのは石高(こくだか)の事であるが前(まへ)の輝政(てるまさ)が荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)に与(あた)へた書付(かきつけ)には御覧(ごらん)の如(ごと)く石高(こくだか)
が記載(きさい)してあるのである然(しか)るに此(この)石高(こくだか)と云ふものは天正(てんせう)の中程(なかほど)以後(いご)から称(とな)ふる処で其(その)以前(いぜん)と云ふもの
は御承知(ごせうち)の通(とほり)何貫文(なんくわんもん)と云ふように貫高(くわんだか)を用(もち)ゐ来(きた)つたのであるが此(この)貫高(くわんだか)と石高(こくだか)とは如何(いか)なる処に相違(さうゐ)
があるかと云ふ事に就(つい)ては旧来(きうらい)頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)となつて居(を)るのである此(この)事(こと)に関(くわん)しては之(これ)迄(まで)著(あらは)されて居(を)る書物(しよもつ)
の内(うち)にも区々(くゝ)の説(せつ)が記(しる)されてある次第(しだい)であるが此処(こゝ)に私(わたくし)の如(ごと)き浅学(せんがく)の者(もの)が之(これ)を詳論(せうろん)する必要(ひつえう)もないの
であるから後日(ごじつ)必要(ひつえう)となつた場合(ばあひ)は兎(と)に角(かく)今(いま)は只(たゞ)貫高(くわんだか)と石高(こくだか)の移(うつ)り替(かは)の時期(じき)に就(つい)て諸君(しよくん)の御注意(ごちうゐ)まで
に申述(もうしの)べた訳(わけ)である
輝政の事業 サテ輝政(てるまさ)は此(この)吉田(よしだ)に来(き)て爾来(じらい)市街(しがい)の改正(かいせい)を行(おこな)ひ大(おほい)に城廓(じようくわく)の拡張(くわくてう)を計(はか)つたのであるが先(ま)づ其(その)著(いちじる)しいも
豊河の橋梁 のを挙(あ)ぐれば第一に豊河橋梁(とよかはけうれう)の移転(いてん)である此(この)橋梁(けうれう)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く之(これ)迄(まで)は今(いま)の関(せき)
屋(や)の処から対岸(たいがん)に懸(か)けてあつたもので土橋(どばし)であつたが少(すこ)しく洪水(こうすゐ)があれば直(たゞ)ちに流失(りうしつ)した位(くらゐ)の一寸し
たものであつたように思(おも)はれる然(しか)るに輝政(てるまさ)は城地(じようち)の拡張(くわくてう)を計画(けいくわく)する上から此(この)橋梁(けうれう)を移(うつ)す必要(ひつえう)を認(みと)めた
ので初(はじ)めて之(これ)を船町(ふなまち)に移(うつ)して且(か)つ完全(くわんぜん)なる板橋(いたばし)となしたのである而(しか)して其(その)位置(ゐち)は現今(げんこん)の橋(はし)のある処よ
り大約(たいやく)四十間許り下流(かりう)で今(いま)も尚(な)ほ其(その)遺跡(ゐせき)が分(わか)るのであるが現今(げんこん)の橋(はし)は明治十二年三月に至(いた)つて初(はじ)めて
今(いま)の位置(ゐち)に架(か)せられたものでそれ迄(まで)はズツト引続(ひきつゞ)いて輝政(てるまさ)架設(かせつ)のまゝの位置(ゐち)に継続(けいぞく)し来(きた)つた次第(しだい)であ
《割書:悟眞寺の移|転を企つ》 る次(つぎ)に市区(しく)の改正(かいせい)の事であるが之(これ)も亦(ま)た余程(よほど)の大計画(だいけいくわく)を企(くわだ)てたものと見(み)ゆる即(すなは)ち今の処に悟眞寺(ごしんじ)があ
つては市区(しく)の整理上(せいりぜう)不便(ふべん)であると云ふので之(これ)を羽田(はだ)の地(ち)に移転(いてん)せしめむとして之(これ)に土地(とち)を与(あた)へたが未(いま)
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百六十九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百六十八
【本文】
⦿池田輝政と吉田
さて前章に申し述べたように、徳川氏は関東に移封されることとなって、東三河に長く根拠を構えていた処のその諸将も悉く関東に移転したのであるが、その後この吉田城には酒井氏に代わって池田輝政が封ぜられて美濃の岐阜から移り来たのである。その時の禄高は十五万二千石であったが、吉田城は言うまでもなくその根拠地で、田原、牛久保などの城もまた領内であったが、田原城には家臣伊木清兵衛という人を置き、牛久保城にはまた同じ家臣の荒尾平左衛門という人を置いたのである。そして、この時輝政が荒尾平左衛門に与えた知行方目録の写しというものが牛久保密談記の中に載っているが、左の通りである。
知行方目録
一 六百八十四石七斗五升 牛久保
一 千百二石八斗四升 長山
一 六百三十六石七斗二升 多米
一 六十七石一斗九升 赤岩
一 四百三十七石一斗九升 大草
一 七十八石一斗三升 手洗
都合三千石余
天正十八年十月二十八日 照政
荒尾平左衛門殿
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百二十八号附録 (明治四十四年十二月五日発行)
【本文】
これで見ると、以上の諸村を平左衛門が知行として持っていたものと見えるが、兼ねてご承知の二連木城にはこの時別に人を置いた様子が見えぬので、その廃城となったのはこの時からであると信じられるのである。そこで一寸お話しして置きたいのは石高のことであるが、前の輝政が荒尾平左衛門に与えた書付にはご覧の如く石高が記載してあるのである。然るに、この石高というものは天正の中頃以後から称える処で、その以前というものはご承知の通り何貫文というように貫高を用い来たのであるが、この貫高と石高とはいかなる処に相違があるかということについては旧来頗る疑問となっているのである。このことに関してはこれまで著されている書物の内にも区々の説が記されてある次第であるが、ここに私のような浅学の者がこれを詳論する必要もないのであるから、後日必要となった場合はともかく、今はただ貫高と石高の移り替わりの時期について諸君のご注意までに申し述べたわけである。
さて輝政はこの吉田に来て爾来市街の改正を行い、大いに城郭の拡張を計ったのであるが、先ずその著しいものを挙げれば第一に豊川橋梁の移転である。この橋梁についてはこれまで度々申し述べて置いたように、これまでは今の関屋の処から対岸に懸けてあったもので土橋であったが、少しく洪水があれば直ちに流失した位の一寸したものであったように思われる。然るに輝政は城地の拡張を計画する上からこの橋梁を移す必要を認めたので、初めてこれを船町に移して且つ完全なる板橋となしたのである。そしてその位置は現今の橋のある処より大約四十間許り下流で、今も尚その遺跡が分かるのであるが、現今の橋は明治十二年三月に至って初めて今の位置に架せられたもので、それまではずっと引き続いて輝政架設のままの位置に継続し来た次第である。
次に市区の改正のことであるが、これもまた余程の大計画を企てたものと見ゆる。即ち今の処に悟真寺があっては市区の整理上不便であるということで、これを羽田の地に移転せしめようとしてこれに土地を与えたが、まだ
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百六十九
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Ikeda Terumasa and Yoshida) - 168
[Main Text]
⦿ Ikeda Terumasa and Yoshida
As mentioned in the previous chapter, the Tokugawa clan was transferred to Kantō, and all their generals who had long established their base in Eastern Mikawa also moved entirely to Kantō. Subsequently, Ikeda Terumasa was enfeoffed at Yoshida Castle in place of the Sakai clan, moving from Gifu in Mino Province. His stipend at that time was 152,000 koku. Yoshida Castle was naturally his headquarters, and the castles of Tahara and Ushikubo were also within his domain. At Tahara Castle he stationed a retainer named Igi Seibei, and at Ushikubo Castle he placed another retainer named Arao Heizaemon. A copy of the land grant catalog that Terumasa gave to Arao Heizaemon at this time is recorded in the "Ushikubo Secret Discussions" and reads as follows:
Land Grant Catalog
One: 684 koku, 7 to, 5 shō - Ushikubo
One: 1,102 koku, 8 to, 4 shō - Nagayama
One: 636 koku, 7 to, 2 shō - Takome
One: 67 koku, 1 to, 9 shō - Akaiwa
One: 437 koku, 1 to, 9 shō - Ōkusa
One: 78 koku, 1 to, 3 shō - Tearai
Total: Over 3,000 koku
Tenshō 18, 10th month, 28th day - Terumasa
To Lord Arao Heizaemon
[Left Page]
[Header] San'yō Shimbun No. 3928 Supplement (Published December 5, Meiji 44 [1911])
[Main Text]
From this, it appears that Heizaemon held the above villages as his fief. Since there is no indication that anyone was separately stationed at Nirengi Castle, which you are familiar with, it is believed that its abandonment dates from this time. Now, I would like to briefly discuss the matter of koku assessment. As you can see, the document that Terumasa gave to Arao Heizaemon records koku amounts. However, this koku system began to be used from around the middle of the Tenshō period onward. Before that, as you know, the kan system was used, expressed as "so many kan-mon." The differences between the kan and koku systems have long been a matter of considerable debate. Various theories about this matter have been recorded in books published to date, but there is no need for someone of such shallow learning as myself to discuss this in detail here. Should it become necessary in the future, that will be another matter, but for now I mention the timing of the transition from kan to koku assessment merely for your reference.
Now, when Terumasa came to Yoshida, he undertook urban reforms and greatly planned the expansion of the castle grounds. The most notable of these was first the relocation of the Toyokawa bridge. As I have mentioned repeatedly regarding this bridge, it had previously been built from the present Sekiya area to the opposite bank as an earthen bridge, but it seems to have been rather flimsy, washing away immediately whenever there was even a slight flood. However, since Terumasa recognized the necessity of relocating this bridge as part of his plan to expand the castle grounds, he moved it to Funamachi for the first time and made it into a proper wooden bridge. Its position was approximately forty ken downstream from where the present bridge stands, and its remains can still be identified today. The current bridge was first built in its present location in March of Meiji 12 (1879), and until then it had continuously remained in the same position where Terumasa had constructed it.
Next, regarding urban reorganization, this also appears to have been quite an ambitious plan. Specifically, he determined that having Gōshin Temple in its current location was inconvenient for urban planning, so he gave it land with the intention of relocating it to the Hada area, but this was not yet...
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Ikeda Terumasa and Yoshida) - 169