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【右ページ上段】
一事なりしが此時(このとき)は未た余怒(よど)の都市(とし)を荒らさゞりし其他(そのた)利根川
筋は本月(ほんげつ)十一日の夕刻(ゆふこく)に於て増水一丈四尺六寸に達し多摩川筋
は増水(ぞうすゐ)一丈五尺 乃至(ないし)一丈七尺に達(たつ)して西多摩郡の調布村、荏原
郡の矢口、六郷、羽田諸村の堤外 耕地(こうち)は一 円洪水(えんこうずゐ)の浸す所とな
り水面杳(すゐめんえう)として涯際(がいさい)なし以て秋潦被害(しうれうひがい)の広且多きを推知するに
足らん
然(しか)れども千住大橋(せんじゆおほはし)は水嵩平水より七尺を増し大橋北詰字河原田(おほはしきたづめあざかわはらたん)
甫(ぼ)の如きは道路へ水を押上(おしあ)ぐる事四尺に及びたれば水防組十名
は夜中(やちう)より橋上に詰め階子(はしご)を下け綱(つな)をおろし高張提灯(たかはりちやうちん)を点じて
橋を保護(ほご)したるが夜明(よあ)けて水勢漸(すいぜいやうや)く強からんとするの傾(かたむき)あるよ
り千住警察署は御用船(ごようせん)九 隻(せき)を出だし大橋及掃門宿間の往来を便
じたり同所(どうしよ)は奥州道(おうしうだう)にて殊に千住市場へ往復頻繁(わうふくひんぱん)の場所(ばしよ)なれば
一日一万人以上の往来あり御用船(ごようせん)も頗(すこぶ)る多忙なり斯れば戸田千(とだせん)
住間(じゅゆかん)の渡船場(とせんば)は悉(こと〳〵)く船止(ふなどめ)めとなり三 河島尾久村間(かはしまおくむらかん)の往復は全く
杜絶(とぜつ)し午前九時に至りては大橋南端(おほはしなんたん)へも少しく水を押上(おしあ)ぐるの勢(いきほひ)
なりし
吾妻橋(あづまばし)は平水より四尺 厩橋(うまやばし)は三尺四寸 両国(りやうごく)は二尺弱以下 順次(じゆんじ)水
量減ずれ共 橋場(はしば)を首め竹屋(たけや)、花川戸(はなかわど)、駒形(こまがた)、富士見(ふじみ)、一ツ目(め)等
の諸渡船場(しよとせんば)は残らず船を出ださず一 銭蒸気(せんじようき)の隅田川丸も休業(きうげう)す
るに至りたり
斯(かゝ)る有様(ありさま)なる故 本所両割下水錦糸町太平町深川木場等(ほんじよりやうわりげすゐきんしちやうたいへいちやうふかゞはきばとう)の地水も
大に溢漲(ちやういつ)したり因に記す千住大橋(せんじゆおほはし)の下鉄道橋架に付てニケの橋
台(だい)を築(きづ)きたるが其一は水路(みづみち)に在るを以て為めに大橋測標(おほはしそくへう)に於て
【右ページ下段】
已前(いぜん)より三尺弱の増水(ぞうすゐ)を致したるものゝ如しといふ
又(また)北豊島郡戸田川戸田橋近傍は十一日午前五時に至て一 丈(ぢやう)二尺
三寸余に至りしかバ同郡志村赤塚両村(どうぐんしむらあかつかりようそん)の如きは五百余戸 浸水(しんすゐ)し
恰(あたか)も一 新湖水(しんこすゐ)を現出し戸田橋往還(とだはしわうくわん)三十余町は渡舟(わたしぶね)を以て通行す
る程なりき
随て千住隅田川筋も益々増水(ます〳〵ぞうすゐ)し向島寺島村字源作堀樋の口俄(くちにわ)か
に揺(ゆる)ぎて既に脱出(だつしゆつ)せん有様に近村(きんそん)の農民等は総掛(そうがゝ)りにて必死の
力を尽(つく)し漸く水防(すゐばう)を為し遂げたりと
十一日八時頃隅田川筋枕橋吾妻橋間即ち旧佐竹邸前沿道(きうさたけていぜんえんどう)は五六
寸 出水(しゆつすゐ)また吾妻橋(あづまばし)百 本杭間(ほんぐひかん)の護岸(こがん)は渾て濁水(だくすゐ)に浸り同所の往来
凡(およ)そ半は氾濫(はんらん)し一時 水勢猛烈(すゐぜいまうれつ)なりし為めに本所深川両低地は何(いづ)
れも出水したり
南葛飾郡利根川は一丈二尺 余(よ)の満水(まんすゐ)となりあはや葛西領(かさいりやう)一 面(めん)に
水害(すゐがい)を及ぼさんず有様なりしを以て同所村民(どうしよそんみん)は鐘(かね)或は太鼓(たいこ)を鳴
らして人夫(にんぷ)を徴集(ちようしふ)し水防に非常(ひじよう)の力を尽したる為め漸(やうや)く危害(きがい)を
免かれたり
千住町 附近(ふきん)の浸水(しんすゐ)は同町より西新井村江北村(にしあらゐむらこうほくむら)へ掛け五百 余戸(よこ)に
達(たつ)し何(いづ)れも床上三尺以上の浸水なれば二 個(こ)の四斗樽を積重(つみかさ)ね其
上に床板(とこいた)を敷きて住(すま)ゐ居れりされば炊事(すゐじ)を為すこと能はざるを
以て郡役所(ぐんやくしよ)にては吏員(りゐん)を派し最寄(もより)〳〵に炊出所を設けて救済(きふさい)に
尽力したり又隅田川村寺島村(またすみだむらてらじまむら)のニ役場及び奥(おく)の植半梅若辺(うへはんうめわかへん)は床上
へ一尺以上 浸水(しんすゐ)し柳田(やばた)の八百松(やをまつ)も将に畳(たゝみ)に及ばんとし鐘淵紡績
会社 女工寄宿舎(ぢよこうきしゆくしや)は一尺計りの浸水にて昨日は休業(きうげふ)せり往還(わうくわん)を流(なが)
【左ページ図】
東京府下浸水略図【上部に横書き】
埼玉県
花畑村 水元村 千葉県
南足立郡
綾瀬村 金町村
新宿町 江戸川
亀有村
千住町 南綾瀬村 南葛飾郡 亀戸村
南千住町 隅田村 本田村 小岩村 市川
浅草区 寺嶋村
大木村 平井村
本所区 篠崎村
両国橋 小松川村
日本橋区 大島村 船橋村
深川区
永代橋 砂村
隅田川
洲崎 中川 葛西村
東京湾
【記号】鉄道 【記号】浸水地
【記号】道路 【記号】決壊箇所
【記号】川 【記号】人工決壊