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したり今氏(いまし)の実見(じつけん)せい大要を聞(き)くに氏が新宿町(しんじゆくまち)に到着したる時
は早や已(すで)に全町浸水し来(きた)りたるを以て警官(けいくわん)及町村吏員は数百名
の人夫を督して水防(すいばう)に力を尽(つく)し氏も亦 属官(ぞくゝわん)を指揮し木を伐り石
を運び一万 余(よ)の空俵を積上(つみあ)げて堤を築(きづ)きしも水量 益々(ます〳〵)加はりて
一方に防(ふせ)げば他方(たはう)に崩れ数百の俵は見る間(ま)に流失し去られたる
を以て更(さら)に数百枚の畳(たたみ)を徴発して之(これ)が水防に力(ちから)を尽したるも木
裂け石流(いしなが)れて怒濤は愈々 勢(せい)を逞(たくまし)ふするのみ加(くはふ)るに当夜(たうや)は天地暗
黒咫尺を弁(べん)ぜずして遂(つゐ)に堤壩を支(さゝ)ふる能(あた)はず警官及吏員は十六
日午前一時前に至(いた)りて人夫一 同(どう)に引上を命(めい)じたり之が為め新宿
町は浸水床上二 尺余(しやくよ)に達して一 面湖海(めんこかい)となり其 方位(ほうゐ)さへ文明な
らざりしを以(もつ)て先(ま)づ江戸川筋の堤防(てうばう)に退却して金町(かなまち)に避難所を
設け女子(ぢよし)を徴発して炊出(たきだ)しを為(な)さしめ男子(だんし)をして之を被害地に
運搬せしめたりしが被害(ひがい)の民家(みんか)は老幼相扶け家族(かぞく)相擁して悲声
を発(はつ)するものあり飢(うゑ)を叫(さけ)ふもあり人(ひと)をして転た暗涙(あんるゐ)に咽ばしむ斯
くて小岩村鹿本村 篠崎村(しのざきむら)に来れば鐘(かね)を鳴(な)らして非常の警報を為
し人心(じんしん)恟々として僅(わづ)かに露命を求(もと)むるに倉忙たるの有様(ありさま)ありた
り云々と
倉田技師の帰庁 十五日 谷口参事官(たにぐちさんじくわん)と同時に中川の西側(にしがは)亀青地
方面へ出張し専(もつぱ)ら防水に尽力し居(ゐ)たる倉田技師は水勢(すゐせい)東側に氾
濫し新宿町(しんじゆくまち)一円浸水し愈々 対岸(たいがん)の堤防決潰して危機(きゝ)已に迫り居
るを望(のぞ)み止(や)むなく危険を冒(をか)して中川橋を渡(わた)り新宿町に至り人夫
を督(とく)して急水の防止(ばうし)に従事したるも如何(いかん)せん住民は皆避難に汲
々として防水に従(したが)ふ者(もの)なく材料 亦乏(またとぼ)しくして到底(たうてい)防水の見込な
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き為め終(つい)に現場を引払(ひきはら)ひて他の手配に従事し同時(どうじ)に警官よりも
住民一般に対(たい)して速かに立退(たちのき)を命じそれより氏(し)は又(また)奥戸村破堤
の箇所(かしよ)に至り村吏(そんり)に対し人夫材料等の徴発(ちようはつ)を協議し僅かに人夫
のみ集りたるも材料全(ざいれうまつた)く調はず是に於(おい)て氏(し)は一方に三 浦技手(うらぎしゆ)を
派して郡長(ぐんちやう)に商議(しやうぎ)せしめ一方には一 先(ま)づ帰庁して材料(ざいれう)を蒐集す
る事(こと)に決(けつ)し仝夜午後八時帰庁せり
防水材料を送る 倉田技師(くらたぎし)は十六日 午前(ごぜん)九時頃 内務省(ないむしやう)土木局に
至り溢水防止に要(よう)する麁朶(そだ)其他の材料を借(か)り入(い)れ正午に至りて
漸く被害地(ひがいち)へ向け送致せり
府庁吏員の徹宵 十一日以来 水害(すいがい)の飛報続々 到達(たうたつ)するより東京
府庁(ふちやう)第一部及第二部にては属(ぞく)及び技手の出張信書(しゆつちやうしんしよ)の往復織が如
く其他空俵及ひ防水材料送達(ばうすゐざいれうそうだつ)の為め連日徹宵(れんじつてつせう)して公務に鞅掌せ
り
●東京府下の洪水
南足立郡花畑村 大字(おほあざ)六ツ木、南葛飾郡(みなみかつしかごほり)新宿町及び奥戸村大字奥
戸新田の堤防潰裂(ていはうくわいれつ)してより滔水は奔馬の勢(いきはひ)を以て中川筋南北の
低地(ていち)に漲溢(ちやうゐつ)し来り宛も天漢(てんかん)の一時に墜下(つゐか)し来りたるかと思はる
ゝ許りにて綾瀬川(あやせがわ)は勿論、隅田中川両水の間に縦横(じゆうわう)せる溝渠は
一時に漫水(まんすゐ)して幾十座の堤防(ていばう)は悉く水底に没(ぼつ)し眼界(がんかい)十 里淼(りべう)とし
て湖海(こかい)の如し唯々彼の中川は紆余曲折して南下(なんか)せるが為めに浸
水の勢 稍々(やゝ)緩慢(くわんまん)にして所在の村民(そんみん)、何れも避難(ひなん)の猶予(ゆうよ)を得溺死
負傷(ふしよう)の数 極(きは)めて少(すくな)かりしは不幸中の僥倖(げうこう)といふべし今其 被害(ひがい)の
区域及び前後の模様(もやう)を明記(めいき)せん
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十六日花畑村大字六木の堤防(ていばう)一たび破壊(はくわい)するや中川の濁流(だくりう)は一
時に押出(おしいだ)して南足立郡内を浸し綾瀬川之を受けて忽(たちま)ち大漫水(だいまんすゐ)と
なり間(ま)もなく其東岸(そのとうがん)なる南綾瀬村(みなみあやせむら)の堤防を破りて全村(ぜんそん)を呑み直
に東走南奔して同日 午後(ごゞ)十一時頃には亀青、堀切、本田、須田、寺島
請地、吾嬬等の諸村を浸しスワ事(こと)こそ起(おこ)りたれ猶予(ゆうよ)して防禦(ばうぎよ)に
手落(ておち)もあれは洪水(こうずゐ)は直に源森川に注(そゝ)ぎ来りて大氾濫(だいはんらん)を起し本所
一 円(えん)は瞬(またゝ)く隙(ひま)に水中に陥没(かんぼつ)し幾多の市民は魚腹(ぎよふく)に葬(はふむ)らるべし先
づ須田村地先の新川辺(しんかわあた)りにてそを堰(せ)き止(と)むるに如かずと本所警
察署長は俄(にわ)かに非番巡査を召集(せうしふ)し土地の壮夫等(さうふら)を指揮(しき)して此処
を必死(ひつし)と防ぎ居たるも滔々と漲り来れる積水(せきすゐ)のことなれば区々(くゝ)の
障碍(しやうげ)に遭へばとて中々 其怒(そのいか)りを止むべきにあらず見る間に請地
村へと押寄(おしよせ)たり今は是までなりせめて本所区丈(ほんじよくだ)けでも浸水(しんすゐ)させ
まじものをと再(ふたゝ)び引舟通りに於て一 防禦(ばうぎよ)を試み同区内の消防夫(しようぼうふ)
は勿論(もちろん)諸工場の職工等(しよくこうら)をも狩(か)り出して南下し来る積水(せきすゐ)を引舟川
へと誘(みちび)きたり之を十六日 以来(いらい)の情況とす然(しか)るに無情(むじよう)なる秋潦(しうらう)は
いやが上にも増(ま)し来(きた)り刻(こく)一 刻(こく)、瞬(しゆん)一 瞬(しゆん)に其量を加へて柳島法恩
寺等の数箇所(すかしよ)も多少の浸水(しんすゐ)を受け濁流道路を噬(か)むに至り瓦町(かわらまち)及
び亀井戸村さへ最(い)と危殆(きたい)に陥りたれば本所区内(ほんじょよくない)なる外手町、石
原町、番場町、表町、原庭、北新町、松倉町等の各市民(かくしみん)は警鐘(けいしよう)、太鼓(たいこ)
果(は)ては銅盥(かなだらひ)を打叩(うちたゝ)きての水防 其効空(そのこうむな)しからずして意外(いぐわい)の変事も
なかりしが何分水源遠(なにぶんすゐげんとほ)き江戸川の氾濫(はんらん)なれば天気は漸く快晴(くわいせい)に
向ひたるも水勢(すゐせい)は益々嵩(ます〳〵かさ)みて隅田堤下(すみだどてした)の道路上にて水深三四尺
に達(たつ)し深(ふか)きは人の乳房(ちぶさ)をも没(ぼつ)するまでに至り徳川水戸邸に於て
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は浸水檐下(しんすゐのきした)に至り榎本子の別邸(べつてい)其他 豪商紳士(がうしやうしんし)の控家等も其床上
を洗はれて惨状眼(さんじようめ)もあてられぬ有様(ありさま)となりたり、されは寺田東
京府書記官及び警察官等相謀(けいさつくわんとうあいはか)りて人工もて隅田堤(すみだつゝみ)を決壊(けつくわい)し溜水
を隅田川筋(すみだがわすじ)へ切り落す事に評議(へうぎ)一 決(けつ)し右決壊工事に着手(ちやくしゆ)せり然
れども十 里(り)の積水(せきすゐ)之が為めに減退(げんたい)せんことは到底望(とうていのぞ)み難けれは
又も枕橋 近傍(きんぼう)に於て一個の決壊口(けつくわいこう)を開きたり然るに隅田川を流(りう)
水(すゐ)十二三日頃に比して稍々(やゝ)減退したりとは云へ平常(へいじよう)よりも水量
嵩み居るのみならず高潮(かうてう)の際には動(やゝ)もすれば決壊口より逆流(ぎやくりう)し
来るの恐あるを以て是れ亦た其効(そのこう)を奏せず遂に其手段を変じて
専ら積水(せきすゐ)を横川筋(よこかわすぢ)及び天神川 (天神橋の架設(かせつ)しある川筋)に導(みちび)
くこととなし天神川の東岸、横川の西岸(せいがん)は高く土俵を積(つ)み上げて
水勢を遮(さへぎ)り止め居れり
又奥戸村(またおくどむら)の堤防一たび決壊を生ずるや中川以東江戸川以西の各(かく)
村落(そんらく)は忽ち水浸しとなりて総武鉄道線路(そうぶてつどうせんろ)以北は一 大沼湖(だいせうこ)と変じ
其の切落(きりおと)しに就て小松川村の人民と附近(ふきん)の農民(のうみん)との間に一大衝
突を惹起し双方各々(そうほうおの〳〵)百数十名の若者原竹槍席旗 今(いま)しも珍事(ちんじ)に及
ばんとせしが警官の注意(ちうい)に因りて双方共に一時手を控へ居るの
刹那滔々(せつなとう〳〵)たる積水は早くも線路以南に及ぼし喧嘩(けんくわ)も水をさゝれ
て其侭立消となり各々我(おの〳〵わ)が村指(むらさし)して退きたり小松川近傍は之が
為めに一 円濁流(えんだくりう)の中に没し唯り同市街(どうしがい)のみ湖中の孤島となりて
存在し居るのみ其後水量は時々に増加して路上(ろじよう)五尺 深(ふか)さに及び
たるも此(こ)の地方(ちほう)は積水を防止すべき適当(てきたう)の堤壩(ていは)なきため到底防
ぎ終ふすべき見込なく水(みづ)のまにまに荒さるゝの外なし