翻刻
世(よ)に蜃気楼|或(あるひ)は海市(かいし)と唱(とな)へて、海上(かいしやう)に楼閣(ろうかく)或は
市街(しかい)の形状忽然(ありさまこつぜん)として顕(あらは)るゝことあり、文政(ぶんせい)の
頃(ころ)紀伊国(きのくに)名高(なたか)の浦(うら)の海上に、ひとつの島(しま)を現出(げんしゆつ)
し、其上(そのうへ)に楼閣(ろうかく)建連(たてつらな)り、その色(いろ)はすべて鼠色(ねづみいろ)にて、
恰(あたか)も墨画(すみゑ)の遠(とほ)山をみるがごとくなりしといひ、
また桑名(くはな)の入海(いりうみ)にて折々(をり〳〵)斯(かく)の如(ごと)きことありとい
へり、西洋(せいよう)にても所々(しよ〳〵)に顕(あらは)るゝことあり、中(なか)にも伊
太利亜国(たりやこく)の「めしな」の瀬戸(せと)といふ所(ところ)には、格別(かくべつ)た
び〳〵|顕(あらは)るゝといふ、其顕(そのあらは)るゝは常(つね)に風(かぜ)なく雨(あめ)
無(な)き日(ひ)にして、朝(あさ)日の高(たか)く
昇(のぼ)りし時、市街(ちまた)の高(たか)き所(ところ)よ
り瀬戸(せと)の海面(うみづら)を見(み)れば、或(あるひ)
は宮殿楼閣(くうでんろうかく)あり禽獣(きんじゆう)あり、
草木(さうもく)あり馬に騎(の)る人(ひと)あり、
車(くるま)に駕(が)する人あり立(た)つ人
あり歩(あゆ)む人あり、歴々(れき〳〵)とし
て海水(かいすゐ)の上面(じやうめん)に顕(あらは)るゝと
なり、これを伊太利亜国(いたりやこく)の