翻刻
方言(はうげん)に「はたもるがな」といふとぞ、これは蜃(しん)と云(い)
ふ龍(たつ)の類(るい)の気(き)を吹きて、かゝる怪(あや)しき影(かげ)を顕す
ともいひ、蜃(しん)といふは蛤蜊(はまぐり)にて、其貝(そのかい)の吹出(ふきいだ)すも
のなりともいふ、桑名(くはな)の海(うみ)には蛤の多(おほ)きゆゑ、蜃
気楼(きろう)も度々(たび〳〵)あらわるゝなりなどゝ云(い)ふなれど
も、決(けつ)して然(しか)るにはあらず、天|気(き)の寒暖(かんだん)によりて
空気(くうき)の中(うち)に濃(こ)き所(ところ)と薄(うす)き処(ところ)と出来(でき)て、その濃(こ)き
所は物(もの)のかげを反照(はんせう)すること、鏡(かゞみ)の如(ごと)くにして近(きん)
傍(ばう)の城郭村落等(じようくはくそんらくとう)これに映(うつ)り、あたかも海上(かいしやう)に在(あ)
るが如(ごと)くに見(み)ゆるものなり
逃水(にげみづ)ならびに箒木(はゝきゝ)の事
今東京(いまとうけい)は世界有名(せかいうめい)の大都会(だいとくわい)にて、数百萬(すひやくまん)の家屋(かをく)
甍(いらか)を連(つら)ね軒(のき)をならべ、甚(はなは)だ繁昌(はんじやう)なりといへども、
其昔(そのむかし)は武蔵野(むさしの)といひて茫々(ばう〳〵)たる荒野(あれの)なりけれ
ば、旅人(たびゝと)のこゝを過(すぐ)るものは、宿屋茶店(やどやちやみせ)などあら
ざれば、草(くさ)を結(むす)びて枕(まくら)とし餉(かれい)を水(みづ)に浸(ひた)して食事(しよくじ)
をなしたりといへり、其不自由(そのふじゆう)なりしこと思(おも)ひ遣(や)
るべし、これを以(もつ)ても世(よ)の開(ひら)けゆくことをさとり