翻刻
御府内は火災(くはさい)を脱(のか)れん宿に住居等まで
塗家(ぬりや)又は土蔵造(くらづくり)になすされば倉の多き事
此地に限り他国に有事なし就中(なかにも)倉の数多(あまた)
なるは荒布橋(あらめばし)より四方を見るに此所より倉の数を
見る所は又他所になし然に建家(たていへ)の破損(はそん)は眼に
止(とま)らざれ共 震崩揺(ふりくつしゆり)落し土の散乱(さんらん)せし体は
実に歎息(たんそく)に余れり勿論(もちろん)土蔵(くら)に一ケ所も安体(あんたい)
なるはなしといへとも如此体(かくのてい)は又珍(めつ)らしければ今
図にあらはし他境遠国(たけうえんこく)の人にしらしむ
斯る所に異変(いへん)有ばいかにせん火災なかりしは
又 倖福(あはせ)といふべきのみ 一登斎
芳綱写
△抑遠き昔の事は諸書に出るといへども当代の老人程定かに知るものなし
まづ三十年来の事は眼前に見る所なれば諸人疑ふ心も有べからす前代に
いまだ聞かざる義の粗(あらまし)を爰に記す〇文政十二寅年五月壱朱銀通用始り
〇天保三辰年二月弐朱金通用始り同六未年七月百文銭通用始り
〇同七年諸国不作三月頃百文に付米弐合八勺|飢死(うへしぬ)もの尤多し是より
前七十五年以前天明三年には百文に付三合又同七未年は百文に付四合五勺
其時節には諸所米屋を打 毀(こはし)騒乱(さうらん)多かりし由なり然るに右天保未年は
稲妻(いなづま)阿武松(おふのまつ)にて角力は大入大繁昌又芝居は中村歌右衛門の名残狂言
にて大当り更に飢饉(ききん)の体にあらず是全く 公(おほやけ)より御救の手厚なるに
寄所なるべし〇天保八酉年五両判壱分銀通用始り〇同九戌年諸
国不作百文に付米四合八勺御救出る〇十二丑年十一月十一日より天下 改革(かいかく)
芝居は浅草へ替地所々遊女屋取払仲間組合諸運上御免となり借貸に