翻刻
休いるうち思はずねむりて居たるに夜風の身にしむと灯燈(てうちん)のもへ立におどろき目を
さましけるにハツトもへし灯(ひ)の影(かげ)にいつの程にきたりけん一人の若き女彳いたるに十介は胆(きも)
を消逃(けしにげ)んとするに立事かなはず唯身ふるひして恐るゝのみ此とき女がいはくさのみ恐レ
ものにはべらず妾(わらは)は柳島なる蜂須賀(はちすか)小太夫が女(むすめ)にて足下(おんみ)の主人大作主には由所(ゆかり)有
もの也此一包を大作主へわたし冝(よく)取計ひを頼 進(まい)らす也亦是は足下に進(まいら)せんとなに
やらん差出しけれ共唯々 怖(こは)さに顔をそむけ手を差出しけるに最重(はなはたおも)き一包なれば
いかなる物ぞとふりかへり見るにはや女は扨置一人の影さへもなく手に一包を持居たる也
かゝる所に長居は無益(むやく)といそぎ我家へ駈(はせ)かへり主人に其由を告(つげ)其場の容(あらさま)くはしく
談(かたり)けるに大作は深く駭(おどろき)つゝ 且(まづ)其包を開見るに数多の金に一書を添有其 写(うつし)
左にしるす△但し右小太夫は去寅年五月施術に付浦賀へ参り留る也家内は
右女みち子に侍女(めしつかひ)下男三人なりしが地震にて其家潰れ下女下男共即死
此みち女も足を打折其外五ヶ所に疵(きづ)を受今は 命も危と思ひしかば一念力に
漸(やう〳〵)崩家を脱出右のごとく苦痛をしのぎ一包と一書をしたゝめ誰にても頼んと
思ふ間はや臨終(りんじう)のとき到(いたり)しならんか最(もつとも)ふしん事あり次の条(くだり)をよみて解(はか)るべし
一十月二日夜地しんにて召仕又私とも一時にむなしく相はて候まゝ此よし
御しらせまゐらせ候今は家内に人もなく候へは早々御かへり可被成候尚また
いろ〳〵散乱いたし候ゆへ取集たくぞんし候へども此身じゆう
成がたく唯一包ばかりさし上まゐらせ候あとの事よろしく〳〵
御取はからひ候やうねがい上まゐらせ候 みち【三千】より
右書は中村大作予に見せられし侭(まゝ)爰に出す△夫より急に支度(したく)し右十介を随
浦賀に行右小太夫にあひ委細(いさい)をものがたり一包をわたしけるに小太夫は此書を見て深く
駭(おとろき)なけきしが且(まづ)此旨を届置中村と共に急船(きうせん)にて江戸にかへり崩家を取除(とりのけ)見るに哀(あはれむ)
べしみち女は五体 砕(くだけ)て中々一書を認(かく)べき容(てい)はなし唯々父を思ふの一念 凝塊(こりかたまり)右の如く
取計ひ縁(ゆかり)有人を待たるならん実に孝心の至と泪(なみだ)に筆を染て記(しるし)はべる