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翻刻
柾木弾正左衛門(まさきたんしやうさゑもん)と名乗(なのり)り【語尾の重複】て度(たひ)々 乗(の)り出(いた)し味方(みかた)の兵(へい)を多(おほ)く突落(つきおと)す条(てう)口惜(くちおしく)
存候 今日(けふ)は柾木弾正(まさきたんしやう)が首(くひ)をとるべきものをとて皆々(みな〳〵)に語(かた)りけるが傍輩(はうはい)とも
わかき人(ひと)はさやうの言(こと)をいはさるものなりと制(せい)しけるか果(はた)して柾木弾正左(まさきたんしやうさ)エ(ゑ)
門(もん)か首(くひ)をとりける大将(たいしやう)義弘(よしひろ)散々(さん〳〵)に懸(かけ)なされ自身(ししん)太刀打(たちうち)し馬(うま)をも射(ゐ)られ
かちたち【注①】に成(なり)玉(たま)ひけるを見(み)て安西伊予守(あんさいいよのかみ)と云(いふ)人(ひと)吾馬(わかうま)より飛下(とひお)り義弘(よしひろ)を
乗(の)せ申(まうし)て歩立(かちたち)に成(なつ)てつき申(まうし)山中(さんちう)にあつまり上総(かつさ)の山(やま)へ落(おち)のびける義弘(よしひろ)の
御馬(おんうま)御紋(こもん)の鞍置(くらおき)射殺(ゐころ)してありなから主(しゆ)は無(なか)りけれは大将(たいしやう)の討死(うちしに)とや
思(おも)ひけん勝山豊前(かつやまふせん)秋元将監(あきもとしやうけん)加藤左馬允(かとうさまのせう)長南七郎(ちやうなんしちろう)鳥居信濃守(とりゐしなのゝかみ)子息(しそく)悪左(あくさ)エ(ゑ)
門(もん)佐貫伊賀守(さぬきいかのかみ)【「かかのかみ」は誤記】多賀越後守(たかゑちこのかみ)引返々々(ひきかへし〳〵 )三千余人(さんせんよにん)討死(うちしに)雑兵(さうへう)以上(いしやう)五千余騎(こせんよき)こそ
打(うた)れける今度(こんとの)張本(ちやうほん)太田美濃守(おほたみのゝかみ)同名(とうみやう)源六兄弟(けんろくきやうたい)のけ申(まうし)に戦(対ナシイ)とて薄手(うすて)【注②】少々(しよう〳〵)
負(おひ)けれは東西(とうさい)に分(わか)れて引(ひい)て行(ゆく)今度(こんと)里見殿(さとみとの)の重代(ちうたい)の重宝(ちようはう)大(おほ)きつ方(かた)小(こ)き
つ方(かた)と云(いふ)太刀(たち)此(この)合戦(かつせん)に失(うせ)にける此事(このこと)小田原(をたはら)に聞(きこ)えけれは分捕(ふんとり)の太刀(たち)刀(かたな)
【注① かちだち(徒ち立ち)=馬に乗らないで徒歩で行動すること。】
【注② うすで=軽い傷。】
現代語訳
柾木弾正左衛門と名乗って度々乗り出し、味方の兵を多く突き落としたことが口惜しく思われる。今日は柾木弾正の首を取るべきものを」と皆に語ったが、仲間たちは「若い人はそのようなことを言うものではない」と制止した。しかし果たして柾木弾正左衛門の首を取った。大将義弘は散々に攻められ、自ら太刀を振るって戦い、馬も射られて徒歩となられたのを見て、安西伊予守という人が自分の馬から飛び降り、義弘を乗せ申して自分は徒歩となってお供し、山中に集まって上総の山へ落ち延びた。義弘の御馬は御紋の鞍を置いたまま射殺されてあったが、主はいなかったので、大将が討死したのかと思ったのであろうか。勝山豊前、秋元将監、加藤左馬允、長南七郎、鳥居信濃守の子息悪左衛門、佐貫伊賀守、多賀越後守が引き返し引き返し戦って、三千余人が討死し、雑兵以上で五千余騎が討たれた。今度の戦いの張本人である太田美濃守、同名源六兄弟は逃げ申すにあたって「戦わない」として軽傷を少々負ったので、東西に分かれて引いて行った。今度、里見殿の重代の重宝である「大きつ方」「小きつ方」という太刀がこの合戦で失われた。このことが小田原に聞こえたので、分捕りの太刀・刀を
英語訳
"Having repeatedly charged forward calling himself Masaki Danjō Zaemon and struck down many of our allies is regrettable. Today I shall take the head of Masaki Danjō," he told everyone. However, his comrades restrained him saying, "Young men should not speak such words." But indeed he did take the head of Masaki Danjō Zaemon. The commander Yoshihiro was fiercely attacked and fought wielding his own sword, and when his horse was shot and he was forced to fight on foot, a man named Anzai Iyo-no-kami leaped down from his own horse, had Yoshihiro mount it, and accompanied him on foot as they gathered in the mountains and fled to the mountains of Kazusa. Yoshihiro's horse was shot dead with the crested saddle still on it, but since the master was not there, perhaps they thought the commander had been killed in battle. Katsuyama Buzen, Akimoto Shōgen, Katō Sama-no-shō, Chōnan Shichirō, the son of Torii Shinano-no-kami called Akuza-emon, Sanuki Iga-no-kami, and Taga Echigo-no-kami fought repeated rearguard actions, and over three thousand men died in battle, with more than five thousand mounted warriors including common soldiers being killed. The instigators of this battle, Ōta Mino-no-kami and his namesake Genroku brothers, fled claiming they would "not fight" and sustained only minor wounds, then retreated in different directions. In this battle, Lord Satomi's hereditary treasures—swords called "Ōkitsu-gata" and "Kokitsu-gata"—were lost. When this news reached Odawara, the captured swords and blades...