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と尋(たつぬる)に万葉考(まうえうこう)六に赤人(あかひと)か手児奈(てこな)をよめる歌(うた)はならの朝(てう)に至(いた)りて天下(てんか)の
始(はじめ)の頃(ころ)の歌(うた)なるを其歌(そのうた)に古(いにしへ)にありけんなといひしからは此少女(このをとめ)は飛鳥岡(あすかのをか)
本(もと)の宮(みや)の頃(ころ)に有(あり)し成(なる)へしと云(いひ)て 舒明帝(しよめいてい)の時(とき)と治定(ちちやう)せり《割書:その証(しやう)【證】は巻十四 葛飾(かつしか)|のまゝの手児奈(てこな)をま》
《割書:ことかもわれによるとふまゝのてこなをといふ歌(うた)をてこな在世(さいせ)の時(とき)の歌(うた)として岡本(をかもと)の時(とき)と|治定(ちちやう)せり岡本(をかもと)の宮(みや)は 舒明天皇(しよめいてんわう)なりその元年(くはんねん)より天平元年(てんひやうくはんねん)にいたりて一百一年なり》又(また)万葉略(まんようりやく)
解(げ)に本居(もとおり)か説(せつ)を挙(あく)るには此歌(このうた)はてこな在世(さいせ)の時(とき)の事(こと)にあらす古(いにし)へのまゝの
てこなを吾(われ)に似(に)たりと人(ひと)のいふはまことかと悦(よろこ)へる女(をんな)の歌(うた)なりといふこの此説(このせつ)
のことくなれは古縁起(こえんき)に 允恭帝(いんきやうてい)の時(とき)にてこなは入江(いりえ)に身(み)を沈(しつめ)たりといふ
によく叶(かな)へり《割書:此(この)うたの様(やう)はいかにも飛鳥岡本(あすかのをかもと)の宮(みや)の頃(ころ)の調子(ちやうし)なれは 舒明帝(しよめいてい)の時(とき)の哥(うた)と定(さた)|めその元年より 允恭帝(いんきやうてい)元年(くはんねん)にさかのほれは二百十八年なりいにしへのてこな》
《割書:といはん事よく|聞(きこ)ゆるなり》又(また)そのかみ手児奈(てこな)か身(み)を沈(しつめ)たる時(とき)は此山(このやま)既(すて)に寺地(てらち)にや有(あり)けん
又(また)在家(さいけ)の地(ち)にや有(あり)けんと千載(せんさい)の後(のち)より千載(せんさい)の昔(むかし)を尋(たつぬ)るは実(まこと)に知(し)りかた
きことにはあれとも桑田碧海須臾(そうてんへきかいしゆゆ)にあらたまるは世(よ)の中(なか)の有(あり)さまにて
地主(ちぬし)度々(たひ〳〵)かはる時(とき)は墳墓(ふんぼ)もすかれて田畑(たはた)となりやすしいかて千載(せんざい)不(ふ)
現代語訳
と尋ねると、『万葉考』巻六に、赤人が手児奈を詠んだ歌は奈良朝に至って天下統治の始まりの頃の歌であるが、その歌に「古にありけん」と言っているので、この少女は飛鳥岡本宮の頃にいたのであろうと言って、舒明帝の時代と決定している。《その証拠は巻十四「葛飾のままの手児奈をまことかもわれによるとふままのてこなを」という歌を手児奈在世の時の歌として岡本の時と決定している。岡本宮は舒明天皇である。その元年より天平元年に至って百一年である。》
また『万葉略解』で本居宣長の説を挙げるには、この歌は手児奈在世の時のことではなく、「昔のままの手児奈を私に似ている」と人が言うのは本当かと喜ぶ女の歌であると言う。この説のようであれば、古い縁起に允恭帝の時に手児奈は入江に身を沈めたと言うことによく合致する。《この歌の様子はいかにも飛鳥岡本宮の頃の調子であるので、舒明帝の時の歌と決め、その元年より允恭帝元年にさかのぼれば二百十八年である。「昔の手児奈」と言うことがよく理解できる。》
また、その昔手児奈が身を沈めた時は、この山はすでに寺地であったのか、また在家の地であったのかと、千年後より千年昔を尋ねるのは、本当に知り難いことではあるが、桑田碧海が瞬時に変わるのは世の中のありさまで、地主が度々変わる時は墳墓も荒れて田畑となりやすい。どうして千年不
英語訳
When we inquire about this, in "Man'yō-kō" Volume 6, it states that Akahito's poem about Tekona was composed around the beginning of imperial rule in the Nara period, but since the poem says "in ancient times," this maiden must have lived during the time of Asuka Okamoto Palace, and it determines this to be the reign of Emperor Jomei. 《The evidence is that the poem from Volume 14, "Is it true that people say the Tekona of Mama in Katsushika resembles me?" is determined to be from Tekona's lifetime during the Okamoto period. Okamoto Palace refers to Emperor Jomei. From his first year to the first year of Tenpyō is 101 years.》
Also, in "Man'yō Ryakuge," citing Motoori Norinaga's theory, this poem is not about events during Tekona's lifetime, but rather the song of a woman rejoicing, asking "Is it true that people say I resemble the Tekona of old?" If this theory is correct, it fits well with the ancient records that say Tekona drowned herself in the inlet during Emperor Inkyō's reign. 《The style of this poem is indeed characteristic of the Asuka Okamoto Palace period, so it is determined to be a poem from Emperor Jomei's time. Counting back from his first year to Emperor Inkyō's first year is 218 years. The phrase "Tekona of old" becomes quite understandable.》
Furthermore, regarding whether this mountain was already temple grounds or residential land when Tekona drowned herself in ancient times—to inquire about events from a thousand years ago from a thousand years hence is truly difficult to know. However, the transformation of mulberry fields into blue seas happens in an instant according to the way of the world, and when landowners change repeatedly, graves become desolate and easily turn into fields. How could [anything remain unchanged for] a thousand years...