翻刻
【右丁】
みちすからつく〳〵おほしめしけるあはれこの人
とくしてゆくこちとおもはゝいかにうれしかり
なんあはれひめきみをこの人とおもはゝおもふ事
あらしかゝるうき世にかく物おもふ事のかなしさ
よとおほしめす心のうちそあはれなるさる【「か」に見える】ほとに
かの所へおはしけれはひめきみおほせらるゝやう夜
をこめ御かへりありてまたふくるまてにいらせ給はぬ
も御ことはりなり御さとにおもひ人のましますと
はこそのかくれさふらはすといつしかねたみ給へは
それにつけても心つきなさ【気に入らないこと】かきりなしたゝわか
御かたのみこひしくてつゝむなみたもれいつるを
【左丁】
さらぬやうにもてなしわれにはとかもさふらは
ぬものをにくませ給へは身のほとこそおもひしら
れて御はつかしく候へとてちかつき給ふこともなし
つちによりふし給ひてこまやかなることもなくゆ
めもむすはてとりのねをそまたせ給ひける八こゑ
のとり【鶏のこと】もつらけれはにくませ給ふともゆふさり【夕方】
はとく参らむとおほせられていそき出させ給
へはひめきみゆふへよりふし給へる御すかたのいま
たねなをり【寝直り】給はてなきふし給へるをみ給ひて
いとゝ【いとど=ますます】かなしくそおほしけるにとかくかたらひ
ふしてなくよりほかの事そなき中将殿のたまひ
現代語訳
【右丁】
道すがらつくづくとお思いになった。「ああ、この人を愛しく思って行くのだと思えば、どんなに嬉しいことだろう。ああ、姫君をこの人だと思えば、思うことはないだろう。このような憂き世で、このように物思いをすることの悲しさよ」とお思いになる心の内は哀れである。そうこうするうちに、あの場所にいらっしゃると、姫君が仰せになるには「夜が更けてからお帰りになって、また夜が更けるまでいらっしゃらないのも、ごもっともです。お里に愛しい人がいらっしゃると聞いておりますので、それを隠していらっしゃらないと、いつも嫉妬申し上げています」と。それにつけても気に入らないことこの上なし。「ただ私の方だけが恋しくて、抑えきれない涙がこぼれるのを
【左丁】
そうでないように取り繕って、私には何も仰せにならないのに、憎ませなさるので、身の程がよく分かって恥ずかしゅうございます」と言って、近づきなさることもない。床に寄りかかって横になって、親密なこともなく、眠ることもできずに鶏の鳴き声をお待ちになった。鶏の声もつらいので憎くお思いになるが「夕方には早く参ろう」と仰せになって、急いでお出になると、姫君は夕方から横になっていらっしゃったお姿で、まだ寝直りもなさらずに、泣き伏していらっしゃるのをご覧になって、ますます悲しくお思いになった。あれこれと語り合って横になって、泣く以外のことはない。中将殿が仰るには