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【右丁】
しばしありて為義(ためよし)又 宣(のたま)ふやう。いにしへより《振り仮名:官|くわん|○おほやけ》に惧(おそ)れずして《振り仮名:管|くわん|○つかさ》に惧(おそ)れよと
いふ事あり。信西(しんせい)は君寵(くんちやう)に誇(ほこ)るものなり。彼(かれ)もしふかくわが党(ともがら)を憎(にく)まば。わが家(いへ)
彼(かれ)が三寸の舌(した)に亡(ほろぼ)さるべし。御身 明日(みやうにち) 筑紫(つくし)のかたへ下(くだ)りて。この禍(わざわひ)を避(さけ)よ。但(たゞし)思ふ
旨(むね)あれば。音耗(おとづれ)はすべからず。とく〳〵旅(たび)の用意(こゝろがまへ)をも致(いた)し候へと宣(のたま)ひければ。為(ため)
朝(とも)は父(ちゝ)の気色(けしき)あしきを見て。ふたゝび言葉(ことば)をかへし給わず。詰朝乳母子須(あけのあさめのとごす)
藤(とう)九郎 重季(しげすゑ)只一人(ただひとり)を召倶(めしぐ)して。都(みやこ)の空(そら)もすみ果(はて)ぬ。月も西(にし)へと入(いる)かたの。その
暁(あかつき)の星(ほし)を戴(いたゞ)き。こゝろ筑紫(つくし)の果(
はて)までもと立出(たちいで)つゝ。日數経(ひかずへ)て豊後国(ぶんごのくに)まで
来給ひしが。この国(くに)に名(な)たゝる。尾張権守季遠(おわりごんのかみすゑとほ)は。由縁(ゆかり)ある人なれば。しばしこの
人をたのみて見ばやとて立より給ひしに。季遠(すゑとほ)易(やす)くうけ引て。養(やしな)ひま
ゐらせし程に。こゝに三年(みとせ)の月日 経(へ)て。為朝(ためとも)既(すで)に十五 歳(さい)。才学(さいかく)ます〳〵すゝ
みて智勇抜群(ちゆうばつくん)なりしかば。経伝兵書(けいでんへいしよ)に思ひを耽(ふけ)らし。又 折(をり)ふしは弓矢(ゆみや)を携(たづさへ)。
【左丁】
木綿山(ゆふやま)《割書:府の西にあり又|丹波に同名あり》に狩(かり)くらし給ふに。有一日(あるひ)只ひとり。山ふかくわけい入りて
路(みち)にまどひ。行(ゆけ)ども〳〵旧(もと)の山路(やまぢ)に出(いで)給わず。只見(とみ)ればゆくさきの樹(こ)の下(もと)に狼(おほかみ)
の子(こ)二頭(にひき)ありて。鹿(しか)の穴(しゝむら)を争(あらそ)ひ。嚼(かみ)あふて生死(しようし)をかへりみず。互(たがひ)に半身
(はんしん)血(ち)に
塗(まみ)れ。勝(まさ)らず劣(おと)らず見えしかば。為朝(ためとも)しばし停立(たゝずみ)て。つく〴〵お思(おぼ)しけるは。今
の世の人(ひと)ごゝろは。笑(えみ)の中に刃(やいば)をかくし。利(り)を見ては親疎(しんそ)をえらまず。官位(くわんゐ)の
高(たか)きを猜(そね)み。食禄(しよくろく)の少起(すけな)をも争(あらそ)ひ。父子(ふし)も讐敵(あたかたき)の思ひをなし。兄弟(きやうだい)鏢(しのき)を
削(けづ)る事。この狼(おほかみ)に異(こと)ならず。今この獣(けもの)のたとひは。我(われ)に観念(くわんねん)を勧(すゝむ)るのなか
だち也。さらば助得(たすけえ)させんとひとりごち。すゝみ対(むか)ひて宣(のとま)ふやう。汝等(なんぢら)はこれ
勇(たけ)き神(かみ)なり。今 食(しよく)を争(あらそ)ひて。互(たがひ)に疵(きず)つき傷(いた)む事あらば。われ労(ろう)せずして
両(ふたつ)ながら獲(え)んも容易(いとやす)し。夫食(それしよく)は別(べつ)に求(もとむ)るともなほ得(う)べし。生(いき)とし活(いけ)るもの一(ひと)
たび命(いのち)をわりなば。求(もとむ)るに道(みち)なかりなん。退(しりぞ)けよといひをわり。弓(ゆみ)の末(うら)を挿(さし)