琉球・沖縄の世界を翻刻する

コレクション: ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1

琉球入貢紀略 - 翻刻

琉球入貢紀略 - ページ 16

ページ: 16

翻刻

討(う)ち奉(たてまつ)るべきよし命(めい)ぜられしかば、嘉吉(かきつ)元年(くわんねん) 三月十三日(さんくわつじふさんにち)、樺山某(かばやまそれがし)にあまたの兵士(へいし)を従(したが)はしめて 討手(うつて)に向(むけ)られ、永徳寺(えいとくじ)に於(おい)て、山田式部(やまだしきぶ)といふもの 僧正(そうしやう)を討(う)ち、御首(おんくび)をは将軍(しやうぐん)へ贈(おく)りけり、僧正(そうじやう)の役(やく) 人(にん)別垂 讃岐坊(さぬきばう)といへるものも、この時(とき)討(うた)れたりとぞ 聞(きこ)えしその恩賞(おんしやう)として、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)へ琉球国(りうきうこく) を賜(たま)はり、討手(うつて)に向(むか)ひし樺山(かばやま)その外(ほか)の兵士(へいし)へ、みな 感状(かんじやう)ならびに太刀(たち)を下(くだ)されたり、此時(このとき)よりして 琉球国(りうきうこく)年毎(としこと)の貢物(みつきもの)たえず、通信交易(つうしんかうえき)してながく 薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となるの始(はじ)めなり、《割書:旧伝集、諸|門跡譜、》   永享(えいかう)以後(いご)琉球人(りうきうじん)来(きた)る 文安(ふんあん)五年(ごねん)、琉球人(りうきうじん)来(きた)る、《割書:分類年|代記》 宝徳(はうとく)三年七月(さんねんしちくわつ)、琉球(りうきう)の商人(あきひと)の船(ふね)、兵庫(ひやうご)の津(つ)に着岸(ちやくがん) したるに、守護職(しゆごしよく)細川京兆(ほそかはけいてう)やがて人(ひと)をつかはして、 彼(かの)商物(あきなひもの)を撰(えら)み取り料足(れうそく)を渡(わた)さず、先々年々(せん〴〵ねん〳〵)の借(しやく)財 四五千貫(しごせんぐわん)に及(およ)べとも返弁(へんべん)なく、その上(うへ)売物(うりもの)をおさへ 留(とゞめ)られて、琉球人(りうきうじん)難義(なんぎ)のよし申しければ、時(とき)の公方(くばう) より、奉行(ぶぎやう)三人(さんにん)、布施下野守(ふせしもつけのかみ)、飯尾与三(いひをよさう)左衛門、同(おなじく)六郎(ろくらう)

現代語訳

討伐するようにと命令されたので、嘉吉元年三月十三日、樺山某に多くの兵士を従わせて討手に向かわせ、永徳寺において、山田式部という者が僧正を討ち、その首を将軍へ献上した。僧正の役人である別垂讃岐坊という者も、この時討たれたと聞いている。その恩賞として、薩摩の大守へ琉球国を賜り、討手に向かった樺山その他の兵士へ、みな感状ならびに太刀を下賜された。この時より琉球国は年毎の貢物を絶やすことなく、通信交易して長く薩摩の附庸となったのが始まりである。《割書:旧伝集、諸門跡譜》 永享以後琉球人来る 文安五年、琉球人が来朝した。《割書:分類年代記》 宝徳三年七月、琉球の商人の船が兵庫の津に着岸したところ、守護職細川京兆がすぐに人を遣わして、その商品を選び取り代金を渡さず、以前からの借財が四、五千貫に及んでも返済せず、その上売り物を押収して、琉球人が困窮している旨を申し出たので、時の公方より、奉行三人、布施下野守、飯尾与三左衛門、同六郎

英語訳

He was ordered to subjugate [them], so on the 13th day of the 3rd month of Kakitsu 1 (1441), Kabayama [someone] was sent with many soldiers as a punitive force. At Eitokuji Temple, a person named Yamada Shikibu killed the head priest and presented his head to the shogun. A retainer of the head priest named Betsudare Sanukibō was also killed at this time, as we have heard. As a reward for this, Ryukyu Kingdom was granted to the lord of Satsuma Province, and letters of commendation along with swords were bestowed upon Kabayama and the other soldiers who participated in the punitive expedition. From this time, Ryukyu Kingdom never ceased its annual tribute, maintaining communication and trade, and this was the beginning of its long status as a dependency of Satsuma. 《Marginal note: Kyūdenshū, Sho-monzeki-fu》 After Eikyō, Ryukyu people came [to Japan] In Bun'an 5 (1448), Ryukyu people came [to court]. 《Marginal note: Bunrui Nendaiki》 In the 7th month of Hōtoku 3 (1451), when a Ryukyu merchant ship arrived at Hyōgo port, the provincial governor Hosokawa Keicho immediately sent people to select and take their merchandise without paying, and despite accumulated debts of four to five thousand kan from previous years without repayment, he also confiscated their goods for sale. When the Ryukyu people reported their difficulties, the shogun of the time [appointed] three magistrates: Fuse Shimotsuke no Kami, Iio Yozaemon, and Iio Rokurō