琉球・沖縄の世界を翻刻する

コレクション: ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1

琉球入貢紀略 - 翻刻

琉球入貢紀略 - ページ 18

ページ: 18

翻刻

官(くわん)謝那(しやな)といふ者(もの)、ひそかに明人(みんひと)と事(こと)を議(はか)り、待遇(たいぐう)こと さらに礼(れい)なく貢物(みつぎもの)もせざりければ、なほ家久(いへひさ)使(つかひ)をつか はし、責(せめ)たゞすといへども従(したが)はざりけるによりて、止(やむ)こと を得(え)す征伐(せいばつ)して、その罪(つみ)を正(たゞ)さんと請(こ)ふに、慶長(けいちやう)十(じふ) 四年(よねん)の春(はる) 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り、樺山権(かばやまごん)左衛門 久高(ひさたか)を惣大(そうたい) 将(しやう)とし、平田太郎(ひらたたろ)左衛門 益宗(ますむね)を副将(ふくしやう)とし、龍雲和尚(りううんをしやう) を軍師(くんし)とし、七島郡司(なゝしまぐんし)を案内者(あんないしや)として、その勢(せい)都(つ) 合(がふ)三千余人(さんぜんよにん)、軍艦(いくさぶね)百余艘(ひやくよそう)を備(そな)へて、二月二十二日(にぐわつにじふにゝち)纜(ともつな) を解(とき)て、琉球国(りうきうこく)へ発向(はつかう)するにのぞみて、おの〳〵出陣(しゆつぢん)の 祝(いは)ひとして餞別(はなむけ)しける、中(うち)にも世(よ)に聞(きこ)えたる勇士(ゆうし)の、 新納武蔵守(にひろむさしのかみ)一氏(かずうぢ)、老後(らうこ)入道(にふだう)して拙斉(せつさい)と号(がう)したる が、樽肴(たるさかな)を持(もた)せられ、祇園(きをん)の洲(す)といふところまで見(み) 送(おく)り、諸軍勢(しよぐんぜい)なみ居(ゐ)けるが、樺山久高(かばやまひさたか)上坐(しやうざ)に居(ゐ)られ ず謙退(けんたい)せられしに、新納拙斉(にひろせつさい)申されけるは、今(いま)琉球(りうきう) 征伐(せいはつ)の大将(たいしやう)として渡海(とかい)あること、即(すなはち)これ君(きみ)の名代(みやうだい) なり、はやく大将(たいしやう)の坐(さ)になほり候へといはれしかば、其(その) まゝ上坐(しやうざ)につかれけり、かゝれば諸軍(しよぐん)の士卒(しそつ)も自(おのづから)心(しん) 服(ふく)し、号令(がうれい)行(おこな)はれたりとかや、夫(それ)より乗船(じようせん)し、山川(やまがは)の

現代語訳

官謝那という者が、ひそかに明人と事を謀り、待遇は全く礼儀を欠き貢物もしなかった。そこで家久は再び使者を派遣して責め糾したが従わなかったため、やむを得ず征伐してその罪を正そうと請願した。慶長十四年の春、台命を受けて、樺山権左衛門久高を総大将とし、平田太郎左衛門益宗を副将とし、龍雲和尚を軍師とし、七島郡司を案内者として、その軍勢は総計三千余人、軍艦百余艘を備えて、二月二十二日に出港して琉球国へ出発するにあたって、おのおの出陣の祝いとして餞別をした。中でも世に聞こえた勇士である新納武蔵守一氏は、老後に入道して拙斉と号していたが、樽肴を持参して祇園の洲というところまで見送りに来た。諸軍勢が並び居る中、樺山久高は上座に座らず謙遜していたところ、新納拙斉が申すには、「今、琉球征伐の大将として渡海されることは、すなわちこれは君の名代である。早く大将の座に就かれよ」と言われたので、そのまま上座に着いた。こうして諸軍の士卒も自然と心服し、号令が行われたという。それから乗船して、山川の

英語訳

An official named Shana secretly conspired with Ming people, showed no courtesy in his treatment [of Satsuma], and sent no tribute. Therefore, Iehisa again dispatched envoys to reprimand and investigate, but when they would not comply, he had no choice but to petition for military conquest to rectify their crimes. In the spring of Keichō 14 (1609), having received imperial command, Kabayama Gonzaemon Hisataka was appointed supreme commander, Hirata Tarōzaemon Masumune as vice-commander, the monk Ryūun as military strategist, and the magistrate of the Seven Islands as guide. Their forces totaled over 3,000 men and over 100 warships. On the 22nd day of the 2nd month, as they weighed anchor and departed for Ryukyu Kingdom, each offered farewell celebrations for the expedition. Among them was the renowned warrior Niiro Musashi-no-kami Kazuji, who in his old age had become a monk called Sessai. He brought sake and food and came to see them off at a place called Gion-no-su. As the various military forces sat in formation, Kabayama Hisataka humbly refrained from taking the seat of honor. Niiro Sessai then said, "Now, as you cross the sea as commander of the Ryukyu expedition, you are indeed the lord's representative. Please take the commander's seat immediately." Thus he took the seat of honor. In this way, the officers and soldiers of all forces naturally submitted to his authority, and command was established. They then boarded their ships at Yamakawa