琉球・沖縄の世界を翻刻する

コレクション: ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1

琉球入貢紀略 - 翻刻

琉球入貢紀略 - ページ 22

ページ: 22

翻刻

 因(ちなみ)に云(いふ)、世(よ)に薩琉軍談(さつりうぐんだん)といふ野史(やし)あり、その書(しよ)の  撰者(せんじや)詳(つまびらか)ならずといへども、あまねく流布(るふ)して、二(に)  国(こく)の戦争(せんさう)をいふものは、かならず口実(こうじつ)とす、その  いふところ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津(しまづ)兵庫頭(ひやうごのかみ)義弘(よしひろ)の代(よ)  に、惣大将(そうたいしやう)新納(にひろ)武蔵守(むさしのかみ)一氏(かつうぢ)、その外(ほか)種島(たねがしま)大膳(たいせん)、佐(さ)  野帯刀(のたてはき)等(とう)、士卒(しそつ)惣人数(そうにんず)十万(しふまん)千八百(せんはちひやく)五十四人(ごじふよにん)  渡海(とかい)せしといへり、又(また)かの国(くに)の、澐灘湊(うんだんそう)、竹虎城(ちくこじやう)ある  ひは、米倉島(べいさうたう)、乱蛇浦(らんじやほ)などいへる地名(ちめい)あり、その将士(しやうし)  には、陳文碩(ちんぶんせき)、孟亀霊(まうきれい)、朱伝説(しゆでんせつ)、張助昧(ちやうぢよまい)等(とう)の名(な)をしる  したり、実(まこと)にあとかたもなき妄誕(まうたん)にしてその書(しよ)の  無稽(ふけい)論(ろん)を待(また)ずしてしるべし、   慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(しゆこう) 寛永(くわんえい)十一年(しふいちねん)閏七月九日(うるふしちぐわつこゝのか)、中山王(ちうさんわう)尚(しやう)、豊賀慶使(ほうがけいし)佐敷(さしき) 王子(わうじ)、恩謝使(おんしやし)金武王子(きぶわうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:元寛|日記》 この年(とし)将軍家(しやうぐんけ)御上洛(ごしやうらく)ありて、京都(きやうと)にましますをも て、二条(にでう)の御城(おんしろ)へ登城(とじやう)す、このゆゑに二使(にし)江戸(えど)に来(きた) らず、 正保(しやうほ)元年(くわんねん)六月(ろくくわつ)二十五日(にしふこにち)、中山王(ちうさんわう)尚賢(しやうけん)、賀慶使(かけいし)金武按(きむあん)

現代語訳

ついでに言うと、世に『薩琉軍談』という野史がある。その書の撰者は詳しくは分からないが、広く流布しており、両国の戦争を語る者は必ずこれを根拠とする。その内容によると、薩州の太守島津兵庫頭義弘の代に、総大将新納武蔵守一氏、その他種子島大膳、佐野帯刀等、士卒総人数十万千八百五十四人が渡海したという。また、かの国の澐灘湊、竹虎城あるいは米倉島、乱蛇浦などという地名があり、その将士には、陳文碩、孟亀霊、朱伝説、張助昧等の名を記している。実に根拠のない妄誕であって、その書の無稽さは論じるまでもなく明らかである。 慶長以後入貢 寛永十一年閏七月九日、中山王尚豊が慶使佐敷王子、恩謝使金武王子等をして、方物を貢いだ。《割書:元寛日記》この年将軍家御上洛があって、京都にいらっしゃったので、二条の御城へ登城した。このため二使は江戸に来なかった。 正保元年六月二十五日、中山王尚賢、慶賀使金武按司

英語訳

Incidentally, there exists a popular history called "Satsuma-Ryukyu Military Chronicle." Though the author of this work is not clearly known, it has circulated widely, and those who speak of the war between the two countries invariably use it as their source. According to its account, during the time of Shimazu Hyūga-no-kami Yoshihiro, lord of Satsuma Province, Supreme General Niiro Musashi-no-kami Kazuuji and others including Tanegashima Taizen and Sano Tatehaki, with a total force of 101,854 soldiers, crossed the sea. It also mentions place names in that country such as Undan Harbor, Chikuko Castle, Beikura Island, and Ranja Bay, and records the names of generals and warriors such as Chin Bunseki, Mō Kirei, Shu Densetsu, and Chō Jomai. This is truly groundless fabrication, and the unreliability of the book is evident without needing to discuss it further. Tribute Missions After Keichō On the 9th day of the intercalary 7th month of Kan'ei 11, Chūzan King Shō Hō sent congratulatory envoy Prince Sashiki and gratitude envoy Prince Kibu to present tribute goods. 《Marginal note: Genkan Diary》 This year, as the Shogun had gone up to the capital and was residing in Kyoto, they ascended to Nijō Castle. For this reason, the two envoys did not come to Edo. On the 25th day of the 6th month of Shōhō 1, Chūzan King Shō Ken, congratulatory envoy Kibu Aji