翻刻
常陸国舟石川村(ひたちのくにふないしかはむら)に佐内(さない)と
いへる百姓(ひやくしやう)あり篤実(とくじつ)にして
能(よ)く其業(そのげふ)を励(はげ)み又|穀物(こくもつ)を
大切(たいせつ)になし常(つね)に麁食(そじき)を専(もつは)らと
なせしが隠居(いんきよ)せし後(のち)おもへらく
農家(のうか)は金銭少(きんせんすくな)きものなれば饑歳(きさい)の
手当(てあて)なくては叶(かな)はぬ物(もの)なりとて
別(べつ)に畑数畝(はたすせ)を引分(ひきわ)け人手(ひとで)をからず
老夫婦(らうふうふ)の力(ちから)にて粟(あは)を仕付(しつけ)け
公納(こうなふ)の余(あま)りは都(すべ)て凶年(きようねん)の
備(そな)へにとて積置(つみおき)しに漸(よう)〻
一倉(ひとくら)に盈(みち)ぬ然(しか)るに天明(てんめい)の
凶荒(きようくわう)にあたり村中饑渇(むらぢうきかつ)に
及(およ)びけるを彼一倉(かのひとくら)の粟(あは)を
出(いだ)し人〻(ひと〴〵)の分(ぶん)に応(おう)じて配(くば)り
施(ほどこ)し飢者(うゑびと)を賑濟(すくひ)たるよし
濟急記聞(せいきうきぶん)に見えたりいと
感(かん)ずべき志(こゝろざし)なり