翻刻
三河国北設楽郡(みかはくにきたしだらこほり)なる或老人(あるらうじん)の話(はなし)に
過(すぐ)る天保(てんほ)七 年(ねん)の凶歳(きようさい)に食物(しよくもつ)の足(た)ら
ざるはもとよりなれども又 塩(しほ)の不足(ふそく)せしには
尤困難(もつともこんなん)を極(きは)めたり初(はじ)めのほどはさる事(こと)なか
りしも後(のち)には塩気(しほけ)を含(ふく)める床(ゆか)の古筵(ふるむしろ)などを
こまかに刻(きざ)み熬(い)りて食(しよく)せしとぞかく
塩(しほ)の拂底(ふつてい)なるは凡(すべ)て凶歳(きようさい)は陰雨多(いんうおほ)きもの
ゆゑ製塩(せいえん)の足(た)らざるによりと此話(このはなし)は容易(たやす)く人の心付(こゝろつか)ざる
事(こと)なれば爰(こゝ)に記(しる)して後(のち)のいましめとす殊(こと)に塩(しほ)は永(なが)く年(とし)を経(ふる)るに従(したか)ひ
塩膽(にがり)去(さ)りてよき品(しな)となるものなれば人々(ひと〴〵)蓄穀(ちくこく)に次(つぎ)て塩(しほ)の貯(たくは)へは怠(おこた)るまじき事(こと)なり