翻刻
【右丁】
出現(しゆつけん)神託(しんたく)あるにより祠(やしろ)を経営(けいえい)して里人(りしん)崇敬(そうけい)し奉(たてまつ)る《割書:大麻止乃豆乃(おほまとのつの)|天神(てんしん)是(これ)なり》
《割書:延喜式(えんきしき)大麻止乃豆(おほまとのつ)とし風土記(ふとき)大麻止乃知(おほまとのち)とす知(ち)と豆(つ)は通音(つうおん)なり又 大(おほ)|麻止(まと)を以(もつ)て於保麻止とし或は布止麻止多麻止なとさま〳〵に称(とな)へたり》其後(そのゝち)
成務天皇(しやうむてんわう)五年乙亥 兄多毛比命(えたけひのみこと)をして此地(このち)に国造(くにのみやつこ)たらしむ
《割書:天穂日命(あまのほひのみこと)の孫(そん)出雲臣祖(いつものおみのおや)名(なは)二井(ふたゐの)|宇迦諸忍之神狭命(うかもろおしのかんさのみこと)十世の孫(そん)なり》因(よつ)て茲(こゝ)に府(ふ)を開(ひら)き給ふ《割書:武蔵国(むさしのくに)の国造(こくそう)の権輿(はしめ)|にして府中(ふちう)の発(おこ)るもとなり》
又(また)大巳貴命(おほなむちのみこと)【ママ】は此地(このち)出現(しゆつけん)の霊神(れいしん)なれは是(これ)を崇(たうと)み其(その)祖神(そしん)なるを以(もつて)
素盞嗚尊(そさのをのみこと)を合祭(かうさい)し《割書:兄多毛比命(えたけひのみこと)は出雲(いつも)の臣(おみ)の裔(えい)なるを以(もつて)の故(ゆゑ)にして当社(たうしや)|祭神(さいしん)の内(うち)殊(こと)に素盞嗚尊(そさのをのみこと)を崇尊(そうそん)する事 神秘(しんひ)ありと云》
相殿(あひてん)に伊弉冊尊(いさなみのみこと)瓊々杵尊(にゝきのみこと)大宮女命(おほみやめのみこと)布留大神(ふるのおほんかみ)等(とう)の四神(ししん)を配(はい)
祀(し)し新(あらた)に此地(このち)に宮祠(きうし)を経営(けいえい)ありて圭田(けいてん)を附(ふ)して以(もつ)て国社(こくしや)となし
此(これ)を称(しよう)して六所宮(ろくしよみや)大麻止乃知天神(おほまとのちのてんしん)と云 又(また)天下春命(あめのしたはるのみこと)《割書:一宮(いちのみや)の祭神(さいしん)なり|其(その)条下(てうか)に詳(つまひらか)也》
瀬織津比咩(せおりつひめ)《割書:小野神社(をのゝしんしや)の祭神(さいしん)なり|其(その)条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》倉稲魂大神(うかのみたまのおほんかみ)《割書:小野神社(おのゝしんしや)|相殿(あひてん)の神(しん)なり》以上(いしやう)の三(さん)
神(しん)を六所宮(ろくしよのみや)の相殿(あひてん)に遷座(せんさ)なして客来三所(きやくらいさんしよ)と称(しよう)し奉(たてまつ)り是(これ)を
祭(まつ)るに国社(こくしや)の礼(れい)を以(もつて)す爾来(しかりしより)大麻止乃知天神(おほまとのちのてんしん)小野神社(をのゝしんしや)二社(にしや)合(かう)
祀(し)の社(やしろ)とはなりたりしなり 安閑天皇(あんかんてんわう)乙卯年に至(いた)りては春冬(しゆんとう)
【枠外】 三ノ百八十四
【左丁】
二 時(し)の祭祀(さいし)を行(おこな)はるる由(よし)旧史(きうし)にみえたり然(しかる)に星霜(せいさう)を歴(へ)て康平(かうへい)
五年に至(いた)り源頼義(みなもとのよりよし)義家(よしいへ)両公(りやうこう)奥州(おうしう)安倍貞任(あへのさたたう)宗任(むねたう)一族(いちそく)征伐(せいはつ)
発向(はつかう)の時(とき)当社(たうしや)に詣(まうて)給ひ軍(いくさ)の勝利(しようり)を祈願(きくわん)ありて夷賊(いそく)平治(へいち)
凱歌(かいか)の時(とき)報賽(はうさい)として一華表(いちのとりゐ)の内(うち)左右(さいう)両辺(りやうへん)に槻(つき)数株(すちゆう)を種(うゑ)し
めて以(もつて)成功(せいこう)を謝(しや)し奉(たてまつ)る《割書:其(その)列樹(れつしゆ)今(いま)|猶(なほ)存(そん)す》治承(ちしやう)四年 右大将(うたいしやう)頼朝公(よりともこう)当社(たうしや)に
詣(まう)て請祷(しやうたう)し大(おほい)に戦勝(せんしよう)の功(こう)あり文治年間(ふんちねんかん)宮社(きうしや)を再興(さいかう)し又
寿永(しゆえい)年間(ねんかん)継嗣(けいし)を求(もと)め頼家公(よりいへこう)を■(まう)【注】く葛西三郎清重(かさいさふらうきよしけ)を
して神器(しんき)を献(けん)せしむ《割書:寛喜(くわんき)四年にも武蔵左衛門尉資頼(むさしさゑもんのしやうすけより)を|奉行(ふきやう)として当社(たうしや)破壊(はゑ)の修理(しゆり)を加(くは)へらる》命(めい)する
所(ところ)の祭祀(さいし)今(いま)に連綿(れんめん)として廃(はい)せす其後(そののち)足利家(あしかゝけ)に至(いた)る迠(まて)世々(よゝ)の
将軍家(しやうくんけ)相継(あひつい)て崇敬(そうけい)衰(おとろ)へす就中(なかんつく)御入国(こにふこく)に逮(およ)むて 御当家(こたうけ)より
尊信(そんしん)なし給ひ社領(しやりやう)五百石を附(ふ)し御祈祷(こきたう)の事(こと)を命(めい)せらる関原(せきかはら)
大坂(おほさか)の両役(りやうゑき)には当社(たうしや)の神主(かんぬし)猿渡左衛門佐盛道(さるわたりさゑもんのすけもりみち)をして御勝(こしやう)
利(り)の御祈祷(こきたう)を修(しゆ)せしめ給ひ御感状(こかんしやう)御直書(おんしきしよ)を給(たま)ふ其後(そののち)二代
【注 「亻+設」。「儲」「設」の誤ヵ】
現代語訳
【右丁】
神の出現と神託があったため祠を建立して、里人が崇敬し奉る(大麻止乃豆乃天神がこれである)。
(延喜式では大麻止乃豆とし、風土記では大麻止乃知とする。「知」と「豆」は通音である。また大麻止を於保麻止とし、あるいは布止麻止、多麻止など様々に称えている)その後、
成務天皇5年乙亥の年に、兄多毛比命にこの地で国造とならせた。
(天穂日命の孫で出雲臣の祖、名は二井宇迦諸忍之神狭命の十世の孫である)これによってここに府を開いた(武蔵国の国造の始まりであり、府中の起こりの元である)。
また大巳貴命はこの地に出現した霊神であるため、これを尊び、その祖神であることから
素盞嗚尊を合祭し(兄多毛比命は出雲の臣の末裔であるため、当社の祭神の内でも特に素盞嗚尊を崇拝することには神秘があるという)、
相殿に伊弉冊尊、瓊々杵尊、大宮女命、布留大神等の四神を配祀し、新たにこの地に宮祠を建立して圭田を付けて国社とし、
これを六所宮大麻止乃知天神と称した。また天下春命(一宮の祭神である。その条下に詳しい)、
瀬織津比咩(小野神社の祭神である。その条下に詳しい)、倉稲魂大神(小野神社の相殿の神である)以上の三神を
六所宮の相殿に遷座させて客来三所と称し奉り、これを
祭るのに国社の礼を以てする。それ以来、大麻止乃知天神と小野神社の二社合祀の社となったのである。安閑天皇乙卯年に至っては春冬
【左丁】
二季の祭祀を行うようになったことが旧史に見えている。しかし星霜を経て康平5年に至り、源頼義・義家両公が奥州の安倍貞任・宗任一族征伐に
出発する時、当社に参詣して軍の勝利を祈願し、夷賊平定し
凱歌を上げた時、報賽として一の鳥居の内の左右両辺に槻を数株植えて
成功を感謝し奉った(その列樹は今なお存在する)。治承4年、右大将頼朝公が当社に
参詣して祈祷し、大いに戦勝の功があった。文治年間に宮社を再興し、また
寿永年間に継嗣を求めて頼家公を儲け、葛西三郎清重を
して神器を献上させた(寛喜4年にも武蔵左衛門尉資頼を奉行として当社破損の修理を加えられた)。命じる
ところの祭祀は今に連綿として廃れず、その後足利家に至るまで代々の
将軍家が相継いで崇敬し衰えなかった。特に御入国に及んで御当家より
尊信なし給い、社領五百石を付けて御祈祷のことを命じられた。関ヶ原、
大坂の両役には当社の神主猿渡左衛門佐盛道をして御勝
利の御祈祷を修めさせ、御感状・御直書を給った。その後二代
英語訳
【Right Page】
Due to divine manifestation and oracle, a shrine was established and the local people worship it with reverence (this is Ōmato-no-tsu-no Tenjin).
(The Engishiki calls it Ōmato-no-tsu, while the Fudoki calls it Ōmato-no-chi. "Chi" and "tsu" are phonetically equivalent. Also, Ōmato is rendered as Ohomato, or variously called Futomato, Tamato, etc.) Thereafter,
In the 5th year of Emperor Seimu, year of kinoto-i, Etakehi-no-mikoto was made the provincial governor of this land.
(Grandson of Ame-no-hohi-no-mikoto and ancestor of the Izumo-no-omi clan, named Futai Ukamoro-oshi-no-kansa-no-mikoto's tenth-generation descendant) Thus a government seat was established here (This was the beginning of Musashi Province's provincial governorship and the origin of Fuchū).
Also, since Ōnamuchi-no-mikoto was a divine spirit who manifested in this land, he was revered, and as the ancestral deity,
Susanoo-no-mikoto was enshrined together (Since Etakehi-no-mikoto was a descendant of the Izumo-no-omi clan, there is said to be divine mystery in the special veneration of Susanoo-no-mikoto among the deities of this shrine).
Four deities - Izanami-no-mikoto, Ninigi-no-mikoto, Ōmiyame-no-mikoto, and Furu-no-ōnkami - were enshrined in the auxiliary halls, and a new shrine was established on this land with sacred rice fields attached to make it a provincial shrine,
called Rokushō-miya Ōmato-no-chi Tenjin. Also Ame-no-shitaharu-no-mikoto (deity of Ichinomiya shrine, detailed in that section below),
Seoritsu-hime (deity of Ono Shrine, detailed in that section below), and Ukanomitama-no-ōnkami (deity of Ono Shrine's auxiliary hall) - these three
deities were transferred to the auxiliary halls of Rokushō-miya and called Kyakurai-sanjo, and were
worshipped with the rites of a provincial shrine. From then on, it became a shrine combining Ōmato-no-chi Tenjin and Ono Shrine. By Emperor Ankan's kinoto-u year, spring and winter
【Left Page】
seasonal festivals were held, as recorded in old histories. However, after many years passed, in Kōhei 5, when Lords Minamoto no Yoriyoshi and Yoshiie set out to subjugate
the Abe Sadatō and Munetō clan in Ōshū, they visited this shrine to pray for military victory, and when they pacified the barbarian rebels
and sang victory songs, as thanksgiving they planted several zelkova trees on both left and right sides within the first torii
to express gratitude for their success (those rows of trees still exist today). In Jishō 4, Right General Lord Yoritomo
visited this shrine for prayers and achieved great victory in battle. During the Bunji era he rebuilt the shrine, and also
during the Jūei era, seeking an heir and having Lord Yoriie, he had Kasai Saburō Kiyoshige
present sacred objects (In Kanki 4 as well, Musashi Saemon-no-jō Sukeyori served as administrator to repair the shrine's damage). The ordained
rituals continue unbroken to this day, and thereafter until the Ashikaga house, successive
shogunal families continued their reverence without decline. Especially upon entering the province, the current house has
shown deep faith, granted 500 koku of shrine lands and commanded prayer services. For the battles of Sekigahara and
Osaka, the shrine's head priest Saruwatari Saemon-no-suke Morimichi was ordered to conduct prayers for vic-
tory and received imperial commendations and direct written orders. Thereafter, the second generation