東京学芸大学「学びと遊びの歴史」を翻刻!

コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之10 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之10 - ページ 21

ページ: 21

翻刻

【右丁】  清水立場(しみつたては) 甲州街道(かうしうかいたう)の立場(たては)に して此辺(このへん)こゝかしこに 清泉(せいせん)涌出(ゆしゆつ)する故(ゆゑ)に 清水村(しみつむら)の称(しよう)ありと 云此地に酒舗(しゆほ)あり て店前(てんせん)清泉(せいせん)沸(ほつ) 流(りう)す夏日(かしつ)は索麺(さうめん) を湛(ひた)して行人(かうにん)を饗(きやう) 応(をう)せり故(ゆゑ)に此地 往来(わうらい)の人こゝに 憩(いこ)ひて炎暑(えんしよ) を避(さけ)さるは なし 【品書き】 下り  そふめん  ところてん 【看板】  此むらや 【枠外】 三ノ百九十五 【左丁】  朝臣(あそん)の手刻(しゆこく)なり  額(かく)《割書:天満宮(てんまんくう)》後宇多天皇勅(こうたてんわうのちよく)世尊寺経朝卿筆(せそんしつねともきやうのふて)  《割書:額(かく)の裏(うら)に左の如(こと)きの二十四字を刻(こく)せり又(また)外(そと)に同(おな)し額(かく)の写(うつ)し一 枚(まい)あり水戸黄門(みとくわうもん)|光圀卿(みつくにきやう)これを奉納(ほうのう)なし給ひしとて裏書(うらかき)に元禄(けんろく)三年庚午 眉毛軒河埜門(ひもうけんかはのもん)|入敬彫(にふけいてう)とあり》  《割書:経朝卿(つねともきやう)の筆(ひつ)せられし額(かく)の背面(はいめん)に曰(いはく)》   建治元年己亥六月廿六日乙丑書也【注】            正三位藤原朝臣経朝  常盤清水(ときはのしみつ)《割書:裏門(うらもん)出口(てくち)道(みち)の端(はた)に小(ちひさ)き池(いけ)あり中島(なかしま)に弁財天(へんさいてん)を安置(あんち)す清泉(せいせん)湧出(ゆしゆつ)|する事 尤(もつとも)夥(おひたゝ)しく下流(かりう)水車(みつくるま)を■(まふけ)【儲】て日用(にちよう)の助(たすけ)とせり延宝年間(えんはふねんかん)筑(つく)》  《割書:紫(し)の僧(そう)某(それかし)当社(たうしや)へ詣(まふて)し頃(ころ)和哥(わか)を詠(えい)するより常盤(ときは)の清水(しみつ)と称(とな)ふるとなり》  本地堂(ほんちたう)《割書:本社(ほんしや)の右(みき)の岡(をか)にあり本尊(ほんそん)十一面(しふいちめん)|観音(くわんおん)の像(さう)は慈覚大師(しかくたいし)の作(さく)と云》道武朝臣霊社(みちたけあそんのれいしや)《割書:本社(ほんしや)の後(うしろ)に|あり土人(としん)三郎(さふらう)》  《割書:殿(との)と称(しよう)す》  社伝云(しやてんにいはく)昌泰(しやうたい)四年 菅公(くわんこう)筑前(ちくせん)の太宰府(たさいふ)へ左遷(させん)の時(とき)御三男(こさんなん)菅原(すかはらの)  道武朝臣(みちたけあそん)も又(また)此地(このち)に流(なか)されさせ給ひ三年の星霜(せいさう)を経(へ)給ひしに  延喜(えんき)三年二月二十五日 父君(ふくん)菅公(くわんこう)筑紫(つくし)にて亡(ほろひ)給ひぬときゝ悲歎(ひたん)の  あまり配所(はいしよ)の徒然(つれ〳〵)に父君(ふくん)の御像(おんさう)を手親(てつから)摸刻(もこく)し給ひ旦暮(たんほ)在(います)か 【注 建治元年は乙亥】

現代語訳

【右丁】 清水立場(しみずたてば) 甲州街道の宿場町であり、この辺りあちらこちらに清い泉が湧き出るため、清水村という名前があると言われている。この地に酒屋があって、店の前に清泉が湧き流れている。夏には素麺を冷やして旅人をもてなした。そのため、この地を往来する人でここに休んで炎暑を避けない者はいない。 【品書き】 下り  そうめん  ところてん 【看板】  このむらや 【左丁】 朝臣の手彫りである。 額《天満宮》後宇多天皇の勅により世尊寺経朝卿の筆 《額の裏に左のような二十四字を刻んである。また外に同じ額の写し一枚があり、水戸黄門光圀卿がこれを奉納なさったとして、裏書きに元禄三年庚午 眉毛軒河埜門入敬彫とある》 《経朝卿の筆による額の背面には次のようにある》  建治元年己亥六月廿六日乙丑書也【注】          正三位藤原朝臣経朝 常盤清水《裏門の出口、道の端に小さな池があり、中島に弁財天を安置している。清泉の湧出が非常に豊富で、下流に水車を設けて日用の助けとしている。延宝年間に築造》 《紫衣の僧某が当社へ参詣した頃、和歌を詠んだことから常盤の清水と称するようになったという》 本地堂《本社の右の岡にある。本尊十一面観音の像は慈覚大師の作と言われる》 道武朝臣霊社《本社の後ろにある。土地の人は三郎殿と称する》 社伝によると、昌泰四年に菅公が筑前の太宰府へ左遷された時、御三男菅原道武朝臣もまたこの地に流されて三年の歳月を過ごされた。延喜三年二月二十五日、父君菅公が筑紫で亡くなられたと聞き、悲嘆のあまり、配所での徒然に父君の御像を手ずから模刻され、朝夕に在りし日を... 【注 建治元年は乙亥】