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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之10 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之10 - ページ 22

ページ: 22

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【右丁】  如(こと)く事(つか)へ孝道(かうたう)の誠(まこと)を尽(つく)され給ひしを後(のち)に一社(いつしや)に奉(ほう)しまゐらす  となり《割書:昔(むかし)は大社(たいしや)にて僧房(そうはう)も多(おほ)かりしとなり桜本坊(さくらもとはう)邑盛坊(いうせいはう)尊住坊(そんちゆうはう)梅本(うめもと)|坊(はう)松本坊(まつもとはう)《振り仮名:滝の坊|たき  はう》以上 六坊(ろくはう)中古(ちゆうこ)迠(まて)も猶(なほ)残(のこ)りてありしに夫(それ)さへ廃(すた)れて》  《割書:今(いま)は《振り仮名:滝の院|たき  いん》と号(かう)する一 宇(う)|のみ存(そん)せり是(これ)古(いにしへ)の《振り仮名:滝の坊|たき  はう》なり》天暦(てんりやく)に至(いた)りては 村上帝(むらかみてい)狛犬(こまいぬ)一双(いつさう)を寄附(きふ)なし  給ふ《割書:今(いま)猶(なほ)存(そん)せり甚(はなはた)の古物(こふつ)|にして寄(き)【奇ヵ】なりとす》又(また)大般若経(たいはんにやきやう)四巻を収(をさ)む源義経朝臣(みなもとのよしつねあそん)の  奉納(ほうのう)なりと云《割書:伊勢三郎(いせのさふらう)亀井六郎(かめゐのろくらう)及(およ)ひ弁慶(へんけい)等(とう)の|四人 書写(しよしや)する所(ところ)の経巻(きやうくわん)なりといへり》 菅原道武朝臣旧館地(すかはらみちたけあそんきうくわんのち) 同所二丁 許(はかり)南(みなみ)にあり空堀(からほり)城門(しやうもん)の跡(あと)と覚(おほ)し  き所(ところ)も見えて四方二町あまりの封境(ほうきやう)なり土人(としん)三郎殿屋敷跡(さふらうとのやしきあと)と称(しやう)  す相伝(あひつた)ふ三郎道武(さふらうみちたけ)此地(このち)に住(ちゆう)し当地(たうち)の県主(あかたぬし)上平太貞盛(しやうへいたさたもり)の女(むすめ)を娵(めと)り  一子(いつし)を得(え)たり其子(そのこ)を菅原道英(すかはらみちふさ)と号(かうす)夫(それ)より六世(ろくせ)の孫(そん)を津戸三郎(つとさふらう)  為守(ためもり)と号(なつ)くると《割書:津戸為守(つとためもり)の事(こと)は安(あん)|楽寺(らくし)の条下(てうか)に詳(つまひらか)也》或云(あるひはいふ)此地(このち)は貞盛(さたもり)旧館(きうくわん)の地(ち)なり  とも《割書:道武(みちたけ)主(ぬし)貞盛(さたもり)の女(むすめ)を|娵(めと)りたる等(とう)の事(こと)は未考(いまたかんかへす)》 仮屋坂(かりやさか) 同所 安楽寺(あんらくし)の門前(もんせん)百歩(ひやくほ)計(はかり)街道(かいたう)の西(にし)の方(かた)へ向(むか)ひて上(のほ)る坂(さか)を  云(いふ)建治(けんち)二年 奉幣使(ほうへいし)此(この)谷保天神(やふてんしん)の宮(みや)へ下向(けかう)し給ひし頃(ころ)仮(かり)に旅(りよ) 【枠外】 三ノ百九十六 【左丁】  館(くわん)を■(まう)【儲】けし旧跡(きうせき)なる故(ゆゑ)に此号(このな)ありと云 梅香山(はいかうさん)安楽寺(あんらくし) 松寿西院(しようしゆさいゐん)と号(かう)す天神社(てんしんのやしろ)より一町半あまり西北(にしきた)の方(かた)  街道(かいたう)より右側(みきかは)にあり天台宗(てんたいしう)にして東叡山(とうえいさん)に属(そく)せり当寺(たうし)は  天満宮(てんまんくう)の別當寺(へつたうし)にして天暦年間(てんりやくねんかん)法円大僧正(ほふゑむたいそうしやう)開創(かいさう)せりと云  中興(ちゆうこう)は津戸三郎為守(つとさふらうためもり)尊願(そんくわん)なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は法然(ほふねん)上人の  作(さく)にして座像(ささう)一尺五寸 計(はかり)あり仏躰(ふつたい)の中(うち)に為守(ためもり)注(ちゆう)する所(ところ)の血文(けつふん)を  収(をさ)むると云 其余(そのよ)什宝(しふはう)に為守(ためもり)の太刀(たち)一振(ひとふり)同 画像(くわさう)一幅(いつふく)同 甲冑(かつちゆう)の  中(うち)に篭(こめ)たりと云 薬師佛(やくしふつ)あり傳教大師(てんけうたいし)の作(さく)と云 像材(さうさい)は沈香(ちんかう)に  して十二 神将(しんしやう)の像(さう)迠(まて)悉(こと〳〵)く高(たか)サ一寸 斗(はかり)の厨子(つし)の内(うち)に造(つく)り篭(こめ)られ  たり《割書:津戸三郎為守(つとさふらうためもり)の墓(はか)は八王子(はちわうし)の市中(しちゆう)観池山(くわんちさん)大善寺(たいせんし)といふ十八 檀林(たんりん)の|浄刹(しやうせつ)にあり寛保(くわんほ)壬戌五百年の遠忌(ゑんき)により其(その)後裔(こうえい)津戸(つと)六郎右衛門 法名(ほふみやう)》  《割書:順譽(しゆんよ)といへる者(もの)造立(さうりふ)せる所の石碑(せきひ)なり又 為守(ためもり)か住(すみ)たりし地(ち)は同所(とうしよ)多麻川(たまかは)の南(なん)|岸(かん)石田(いした)といふ地(ち)にあり今(いま)も八幡宿(やはたしゆく)の中(うち)に其(その)子孫(しそん)連綿(れんめん)として相続(さうそく)せり津戸(つと)三郎|為守(ためもり)は法名(ほふみやう)を尊願(そんくわん)と号(かう)す文章博士(もんしやうはかせ)菅原孝標(すがはらのたかすゑ)常陸介(ひたちのすけ)に任(にん)し下国(けこく)の時(とき)武蔵(むさしの)|国(くに)の総追補使(さふついふし)秩父権守平重総(ちゝふこんのかみたいらのしけふさ)か娘(むすめ)に嫁(か)して一子(いつし)を生(しやう)す名(な)を津戸次郎為広(つとしらうためひろ)|といふ其(その)三男(さんなん)為守(ためもり)なり為守(ためもり)生年(しやうねん)十八 歳(さい)にして治承(ちしやう)四年八月 石橋山(いしはしやま)の合戦(かつせん)に|馳参(はせさん)して頼朝公(よりともこう)の旗下(きか)に属(そく)し度々(たひ〳〵)軍(いくさ)に忠(ちゆう)を顕(あらは)し名(な)をあけすといふ事》

現代語訳

【右丁】 如くお仕えして孝道の誠を尽くされたのを、後に一社に奉り申し上げるようになったという。《昔は大社であって僧房も多かったという。桜本坊、邑盛坊、尊住坊、梅本坊、松本坊、滝の坊の以上六坊が中古まではまだ残っていたが、それさえ廃れて、今は滝の院と号する一宇のみが存在している。これは古の滝の坊である》 天暦年間に至っては、村上帝が狛犬一双を寄附なさった。《今なお存在し、非常に古い物で珍しいとされる》また大般若経四巻を収蔵している。源義経朝臣の奉納であると言われる。《伊勢三郎、亀井六郎及び弁慶等の四人が書写したところの経巻であると言われている》 菅原道武朝臣旧館地 同所から二丁ばかり南にあり、空堀や城門の跡と思われる所も見えて、四方二町あまりの範囲である。土地の人は三郎殿屋敷跡と称する。言い伝えでは三郎道武がこの地に住み、当地の県主上平太貞盛の娘を妻として、一子を得た。その子を菅原道英と号し、それより六世の孫を津戸三郎為守と号するという。《津戸為守のことは安楽寺の条下に詳しい》或いは、この地は貞盛旧館の地であるとも言われる。《道武が貞盛の娘を妻としたなどのことは未だ考証していない》 仮屋坂 同所安楽寺の門前百歩ばかり、街道の西の方へ向かって上る坂を言う。建治二年、奉幣使がこの谷保天神の宮へ下向された頃、仮に旅館を設けた旧跡であるため、この名があると言う。 【左丁】 梅香山安楽寺 松寿西院と号する。天神社より一町半あまり西北の方、街道より右側にある。天台宗で東叡山に属している。当寺は天満宮の別当寺で、天暦年間に法円大僧正が開創したと言われる。中興は津戸三郎為守尊願である。本尊阿弥陀如来は法然上人の作で、座像一尺五寸ばかりあり、仏体の中に為守が注した血文を収めると言う。その他の什宝に為守の太刀一振り、同じく画像一幅、同じく甲冑の中に込められたと言う薬師仏があり、伝教大師の作と言われる。像材は沈香で、十二神将の像まですべて高さ一寸ばかりの厨子の内に造り込められている。 《津戸三郎為守の墓は八王子の市中、観池山大善寺という十八檀林の浄刹にあり、寛保壬戌五百年の遠忌により、その後裔津戸六郎右衛門法名順譽という者が造立した石碑である。また為守が住んだ地は同所多摩川の南岸石田という地にあり、今も八幡宿の中にその子孫が連綿として相続している。津戸三郎為守は法名を尊願と号す。文章博士菅原孝標が常陸介に任じて下国の時、武蔵国の総追補使秩父権守平重総の娘に嫁して一子を生んだ。名を津戸次郎為広といい、その三男が為守である。為守は生年十八歳にして治承四年八月石橋山の合戦に馳せ参じて頼朝公の旗下に属し、度々軍において忠を顕し名を上げたという》

英語訳

【Right Page】 He served his father in this manner with utmost filial devotion, and later this was enshrined in a sanctuary. <<In the past, this was a large shrine with many monk quarters. The six halls - Sakuramoto-bo, Yusei-bo, Sonju-bo, Umemoto-bo, Matsumoto-bo, and Taki-no-bo - remained until the medieval period, but even these fell into ruin. Now only one building called Taki-no-in remains, which is the former Taki-no-bo.>> During the Tenryaku era, Emperor Murakami donated a pair of guardian lion-dogs. <<These still exist today and are considered very ancient and precious artifacts.>> The temple also houses four volumes of the Great Prajnaparamita Sutra, said to be donated by Minamoto no Yoshitsune. <<It is said these sutras were copied by four people: Ise no Saburo, Kamei no Rokuro, Benkei, and others.>> Former residence site of Sugawara no Michitake Ason: Located about two cho south of the same place, with visible remains of empty moats and what appear to be castle gate ruins, encompassing an area of over two cho in all directions. Local people call it the "Saburo-dono mansion site." According to tradition, Saburo Michitake lived here and married the daughter of the local governor Kami-Heita Sadamori, having one son. This son was called Sugawara no Michifusa, and his sixth-generation descendant was called Tsudo Saburo Tamemori. <<Details about Tsudo Tamemori are found in the section on Anrakuji.>> Some say this land was the site of Sadamori's former mansion. <<The matter of Michitake marrying Sadamori's daughter has not yet been verified.>> Kariya-zaka (Temporary House Slope): This refers to the slope that goes up westward from the street, about one hundred paces from the gate of Anrakuji temple at the same location. In the second year of Kenji, when an imperial envoy came down to Yaho Tenjin Shrine, a temporary lodging was established here, hence the name. 【Left Page】 Baikosan Anrakuji Temple: Also called Shoju Saiin. Located about one and a half cho northwest of the Tenjin shrine, on the right side of the highway. It belongs to the Tendai sect under Toeizan. This temple serves as the head temple of Tenmangu and was founded by High Priest Hoen during the Tenryaku period. The restorer was Tsudo Saburo Tamemori Songan. The principal image, Amida Nyorai, was made by Saint Honen and is a seated statue about 1.5 shaku tall. It is said that within the Buddha's body is kept a blood document written by Tamemori. Other treasures include Tamemori's sword, a portrait, and a Medicine Buddha said to be made by Great Master Dengyo, which is said to be enclosed within armor. The statue is made of aloes wood, and even the images of the Twelve Divine Generals are all carved and enclosed within a miniature shrine about one sun in height. <<Tsudo Saburo Tamemori's grave is located at Kanchisan Daizenji temple, one of the eighteen seminaries in Hachioji city center. A stone monument was erected by his descendant Tsudo Rokuroemon (Buddhist name Junyo) for the 500th memorial service in Kanpo year of the Metal Dog. The land where Tamemori lived is in a place called Ishida on the south bank of the Tama River at the same location. His descendants continue to live in Yahata-juku to this day. Tsudo Saburo Tamemori's Buddhist name was Songan. When the literary scholar Sugawara no Takasue was appointed as Governor of Hitachi and went to his province, he married the daughter of Taira no Shigefusa, the Deputy Governor of Chichibu and General Pursuit Officer of Musashi Province, and had one son named Tsudo Jiro Tamehiro. Tamemori was his third son. At the age of eighteen, Tamemori rushed to join the Battle of Ishibashiyama in the eighth month of the fourth year of Jisho, served under Yoritomo, and repeatedly distinguished himself in battle, making a name for himself.>>