翻刻
仏神(ぶつじんの)の御号(みな)を唱(とん)へなどして水の引をぞ待居(まちゐ)たる時に壱人の者は懐中(くはいちう)より
焼飯(やきめし)二ツ取出し是を戴(いたゞ)き壱ツ喰(く)ひて残(のこる)壱ツは懐中しぬ又壱人の旅人(りよじん)は何の
貯(たくは)へもなく彼(かの)喰残(くひのこ)せし焼飯を所望(しよもう)しければ彼(かの)ものゝいふ我(われ)も壱ツにては喰(くひ)
足(た)らねども此 満水(まんすい)いつ引べきとも覚(おぼ)へずまさかの時今一ツ喰(くは)んと思ひ残(のこ)せし也
此 義(ぎ)はゆるし給へといふ彼(かの)壱人は段々(だん〳〵)空腹(くうふく)になり身体(しんたい)つかれければ今は左右(とかく)の
せんかたなく扨々(さて〳〵)御 身(み)は情薄(なさけうす)き人かなかくまで我は飢(うへ)につかれし上(えへ)は忽(たちまち)今 水中(すいちう)
に落(おち)みくずとも成べし何を隠(かく)し申さん我金子弐百両 懐中(くはいちう)せり此金百両 進(しん)じ
申すべし其 焼飯(やきめし)我に与(あた)へ給へといふ彼もの気毒(きのどく)には思へども今此 時宜(しぎ)に及(および)て
金銀にて命(いのち)は買(かは)れまじ我金子の望(のぞみ)なしといヘは成程(なるほど)貴殿(きでん)の言尤(ことばもつとも)なり去(さり)な
がら御身は最前(さいぜん)一ツ喰(くひ)給ヘば今しばらくは凌(しの)がるべし我はすでに精力(せいりよく)も尽(つき)たり
何とぞ助(たす)け給へとてくだんの金子取出し只向(ひたすら)たのみければ彼もの思ふ様 迚(とて)も【コマ12に続く】
古(ふる)き人の物(もの)がたりに
霖雨(ながあめ)の節(せつ)山谷(さんこく)
又は沖(おき)など
地震(ぢしん)の
ごとく
鳴事(なること)
あれば
大変(たいへん)の
きざし也
ゆだんすべ
からざる
よし
語(かたり)つたへ
侍(はんべ)りき
先年(せんねん)紀州(きしう)
熊野(くまの)にて
さる事ありて
後世(こうせい)のため
事(こと)の次第(しだい)を
石(いし)に彫(ほり)て
建(たて)しとぞ