翻刻
貯(たくは)へたる金(かね)を道(みち)の辺(ほとり)の女にあたへんとし給ふは何事ぞや色(いろ)にふけりて
親(おや)をわする不孝(ふかう)不義(ふぎ)の人なりかゝる浅(あさ)はかなる人とはしらず五年の間(あひだ)
貧苦(ひんく)をしのぎ節義(せつぎ)を守(まもり)しも詮(せん)なく侍れば我(われ)にはいとまを給(たまふ)べし
と終(つひ)に家(いへ)を出行其 夜(よ)深(ふか)き淵(ふち)に身をしづめ空(むな)しく成ぬ秋胡子(しうこし)驚(おどろ)き
悔歎(くやみなげ)くといへどもかひなし世(よ)にはかゝる潔(いさぎよ)き女もありけるよと聞(きく)人 皆(みな)
涙(なみだ)を流(なが)し感(かん)じけるとぞ
小嶋村(をしまむら)の老女(ろうぢよ)雲気(うんき)を見(み)る事
寛文(くわんぶん)年中の頃(ころ)但馬国(たじまのくに)城崎郡(きのさきごほり)小嶋村(をじま)といふ所に八十 有余(ゆうよ)の老女(らうぢよ)あり此もの
雲気(うんき)を見て風雨(ふうう)を考(かんがう)るに頗妙(すこふるめう)を得(え)たりよつて近郷(きんがう)の百性或は漁師(れうし)船(ふな)
乗(のり)など日夜(にちや)来て晴雨(せいう)を問(と)ふに一ツとして違(たが)ふ事なし近郷(きんがう)の人 彼(かれ)を呼(よん)で
奇母(きぼ)とぞ号(なづけ)ける又其 近辺(きんへん)蚕業(さんげふ)の家多し因(よつ)て蚕の吉凶(きつけう)を問(と)ふに奇母(きぼ)
のいふ今年(ことし)五月 初(はじめ)は天気 後(のち)雨(う)天なり爰(こゝ)をもって考(かんが)ふれば早(はや)き蚕は利あり
遅(おそ)き蚕は利有まじといふ果(はた)して其言(そのことば)に差(たがは)ず或時(あるとき)大坂 堂嶋(だうじま)の者(もの)城崎(きのさき)温泉(おんせん)
に入湯(にふたう)し此 奇母(きぼ)の事を聞(きゝ)誠(まこと)や中華(もろこし)宋(そう)といふ国に不亀手(ふきしゆ)の薬を伝(つた)へて綿(わた)
を洗(あら)ふ事を業(げふ)とする者(もの)あり《割書:不亀手(ふきしゆ)とは冬|手のこゞへぬを云》呉人(ごひと)此 薬方(やくはう)を百金に買(かひ)て冬(ふゆ)越人(ゑつひと)と水戦(すいせん)
し越(ゑつ)の大軍(たいぐん)を破(やぶ)りし例(ためし)あり我は此 老婆(らうば)をつれ帰(かへ)り毎日(まいにち)天気を見させて米
相場(さうば)をせば大利(たいり)を得(え)ん事 目前(もくぜん)也と毒咲(ひとりゑみ)して彼村に行 老婆(らうば)を抱(かゝ)へ早駕籠(はやかご)にて
大坂へ連(つれ)帰り別宅(べつたく)に置 深(ふか)く秘(ひ)して人に語(かた)らず日々(にち〳〵)夜々(や〳〵)晴雨(せいう)を問(とふ)て相場をしける
に如何(いか)なる故(ゆへ)にや老婆(らうば)の言(ことば)一ツもあはず案(あん)に違(たが)ふて大きに損(そん)し老婆を責(せめ)て其(その)
方(はう)日和(ひより)を見る事 妙(めう)を得(え)たりと聞(きゝ)数多(あまた)の金(かね)を費(ついや)し連帰(つれかへ)り育(はごく)み置(をく)に何(なに)が不足(ふそく)
にて莫太(ばくたい)の損(そん)をさせしやといヘば老婆のいふ様 全(まつたく)不足(ふそく)の有て虚言(そらごと)を申すにては
なけれども当国(たうごく)には但馬(たじまの)国 津居山(つゐやま)の如(ごと)き海辺(かいへん)に近(ちか)き高山(かうざん)なし夫故様々に