翻刻
璋等故縦其下之罪追究悪徒依法懲治自後定例
二年一貢止許百人多不過加五人除正員外不得
私附貨物并途次騒擾有累国王忠順之意其省之
十二年王遣使梁応等入謝会憲宗立皇太子応
因奏乞如朝鮮安南例賜詔齎回礼部以琉球日本
占城皆海外国例不頒詔憲宗特命降勅并以錦幣
帰賜其王及妃 十三年王遣使李栄奉表謝恩巳
又遣程鵬貢馬及方物復請歳一遣使朝貢不許命
如前勅王在位七年寿六十二成化十二年薨
尚宣威
明成化十三年丁酉尚宣威摂位
中山世鑑云尚宣威尚円之弟宣徳五年庚辰生少
育於兄九歳従兄渡国頭至中山為黄帽官尚円卒
世子尚真年十三宣威摂国事六閲月国人楽附後
引尚真掖就王位巳東嚮立退隠於越来其年卒《割書:汪|録》
《割書:世纘図云丙申|八月四日卒》寿四十八諡義忠今其子孫尚存
尚真
明成化十三年丁酉尚宣真位
現代語訳
璋等の故に其の下の罪を縦にし、悪徒を追究して法に依って懲治せよ。自後定例として二年に一度の貢とし、ただ百人を許し、多くとも五人を加えるに過ぎず、正員を除く外は私に貨物を附することを得ず、并びに途次騒擾して国王の忠順の意に累を有することその省みよ」と。
十二年(1476年)王は使者梁応等を遣わして入謝させた。会々憲宗が皇太子を立てたため、応は因って奏して朝鮮・安南の例の如く詔を賜い齎し回ることを乞うた。礼部は琉球・日本・占城は皆海外国で例として詔を頒たずとしたが、憲宗は特に命じて勅を降し、并びに錦幣を以て其の王及び妃に帰賜した。十三年(1477年)王は使者李栄を遣わして表を奉じて謝恩し、已にまた程鵬を遣わして馬及び方物を貢し、復た歳に一度使いを遣わして朝貢することを請うたが許されず、前勅の如くに命じられた。王は在位七年、寿六十二、成化十二年(1476年)薨じた。
尚宣威
明成化十三年丁酉(1477年)尚宣威摂位
中山世鑑に云う、尚宣威は尚円の弟、宣徳五年庚辰(1460年)生まれ、少くして兄に育てられ、九歳にして兄に従い国頭を渡り中山に至り黄帽官となった。尚円卒すると世子尚真は年十三、宣威が国事を摂し六ヶ月を閲した。国人は楽しく附き従い、後に尚真を引き掖けて王位に就かしめ、已に東嚮して立ち越来に退隠した。其の年卒す、寿四十八、諡は義忠、今其の子孫尚存す。
尚真
明成化十三年丁酉(1477年)尚真位に就く