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翻刻
【本文】
けふ文月の末つかた一百二□
そのなごり猶しば〳〵なり
しかるに犀川の流とゞまる事二旬すでに一月をへ
沿流(ナガレニソフ)の 村落(ムラ〳〵)ために水底に沉没(シツミ)し上は筑摩(ツカマ)安曇(アヅミ)の
二郡を浸淩(ヒタ)す凡八九里その際(アヒタ)山つらなり川めぐりて広さ
また測(ハカ)るべからすこゝに四月六日以来 暴風(カゼアラビ)霖雨(ナガアメ)して
土ながれ水もれ第二の山隄(ツヽミ)水数丈を湛(タヽ)ゆ同十三日《割書:申|刻》
西南の山 鳴(ナリ)水声耳をつらぬく俄(ニワカ)にして雲霧(ウンム)谷を出
東北にはしる《割書:コレ水煙ノ|山ヲイヅルニ》時に疾風(シツフウ)いさごを飛(トバ)し濆波(フンハ)雨を
降す魁水(サキミツ)のほとばしるさま百万の奔馬(ホンバ)原野(ゲンヤ)を駆(カル)が
ごとく巨濤(ヲホナミ)のみなぎる天地をたゞよはすかとうたがふ夜
更刻にいたり東西五七里南北こし路(ヂ)《割書:翌十四日申剋北越|新潟ニ至ル五十余里》に及び
高低ともに水ならざる所なしあかつき逈(ハルカ)に奥郡を望に
渺茫(ベウボウ)として長 江(コウ)の雲をしのぐに似たり数日の後水をち
土かはきて常のごとしと嘗(カツ)てきく【小字】「三代実録及扶桑略記」
光孝帝の御宇仁和丁未 地震(ナヰ)大にして山 崩(クツ)れ川 塞(フサガ)り我国
六郡こと〴〵く以て蕩盡(ナガレツクル)と至今九百六十一年その地得て
考ふへからず今又水災の及ぶ殆(ホトンド)六郡その害の大なるも亦
仁和の記の如しと誰かしらん千載の後如_レ是一大変に
遇(アハ)むとはつゝしまさるへけんや
現代語訳
今年文月(七月)の末頃から一百二十日ほど、その余波がなお度々続いている。
ところが犀川の流れが止まったまま二旬、すでに一ヶ月を過ぎ、川沿いの村々は水底に沈没し、上流は筑摩・安曇の二郡を浸水させた。およそ八、九里の間、山々が連なり川が巡って、その広さは測ることができない。ここに四月六日以来、暴風と長雨が続き、土砂が流れ水が漏れて、第二の山の堤ができ、水が数丈の深さに湛えられた。同月十三日申の刻(午後三時頃)、西南の山が鳴り響き、水音が耳を貫く。突然雲霧が谷から出て東北に走る(これは水煙が山から出るものである)。このとき疾風が砂を飛ばし、激しい波が雨を降らせる。先頭の水が激流となって流れ出る様子は、百万の馬が原野を駆けるようで、巨大な波が満ちあふれる様は天地を漂わせるかと疑われる夜更けの刻に至り、東西五、七里、南北は越後路(翌十四日申の刻、北越新潟に至る五十余里)に及び、高低を問わず水でない所はない。明け方遥かに奥郡を望むと、果てしなく広がって長江の雲を凌ぐように見えた。数日の後、水が引き土が乾いて平常のようになったという。
かつて聞くところによると、『三代実録』及び『扶桑略記』に、光孝天皇の御世、仁和丁未年に大地震があって山が崩れ川が塞がり、我が国の六郡がことごとく流し尽くされたとある。今に至るまで九百六十一年、その土地を確認することはできない。今また水災が及ぶこと、ほとんど六郡にわたり、その害の大きさもまた仁和の記録の如くである。誰が知ろうか、千年の後にこのような一大変災に遭遇するとは。慎まなければならないことである。