翻刻
すべし此湯は温にして冷あり冷にして温なり
病ふともて癒すといふ事あるへからずと懇に
語りて此老僧はかきけす様に失たまふ
茲に狩野遠久といふ武士あり行基此次第を一
々語り給ひて則遠久を召倶して荊棘(けいそう)【読みは棘を棗と混同したか】をはらひ
岩をうかち尋求させ給へば彼老僧の教の如く
温泉沸出る事おひたゞし行基は軈て仮初の庵
を結ひいよ〳〵遠久をかたらひて湯けたを造
らしめ給ふ或夜行基の臥給ひける枕に夢ともな
く現(うつ)ともなく前の老僧来り給ひて善哉や御辺に
告まうせし事能なし給ひぬ此湯にいる輩は諸
病癒すといふ事あるへからす我はこれ東方薬師
瑠璃光なり則此湯もとに跡をたれ人間の病苦
を救(すく)はんと示し給ふを驚き見給ひけれは紫磨
黄金の肌(はだ)なる光明無辺の医王善逝にてそいま
そかりける
行基は歓喜(くわんぎ)の泪(なみだ)をしぼり忍辱(にんにく)の袖をまくり手に
してやかて御堂を造立し国分寺として薬師の
尊像を刻(きざ)み安置し給へは諸人|踵(くびす)をつきて礼拝(らいはい)
す其後狩野遠久此湯の主と成て此所に居住す