翻刻
戸にいたりて家にあらず時に甲州(かうしう)の人とて《割書:西郡の|某氏》一人の老人娘とて中年の
女二人下女一人 従者(づさ)二人を具(ぐ)して宿(やど)りけるが翁(おきな)のいふやう我は疝記(せんき)の病ひ
ありいもとの娘に癪(しやく)の病ひあり二つの病症(びやうせう)此湯に妙なりと聞きてはる〴〵
こゝに来りし也しかるに此姉に一つの奇病(きびやう)ありもし此湯にて治する事もやあらん
かと保養(ほやう)かた〴〵につれきたれりその奇病といへるは六年 以前(いぜん)より昼夜(ちうや)眠(めふ)る
事あたはず神心(しん〳〵)労(つか)れて見らるゝごとく枯痩(やせおとろへ)食すゝまずして闇所(くらきところ)をこのみ
人に對(たい)する事を忌(い)み時としては心(こゝろ)朦々(もうもう)として人事(じんじ)を弁(べん)ぜずして発狂(はつきやう)せるが如(ごとし)
かゝる病にも此湯の利(きゝ)申にやと問(と)ふ婦人 答(こたへ)ていふ今 聞(きこ)へ給ひける疝(せん)と癪(しやく)とは
此 温泉(いでゆ)に浴(よく)し給ひて全快(ぜんくわい)ありし人〱許多(あまた)あれど六年の間(あいだ)眠り玉は
ざる病を治したる事は聞(きゝ)もおよびあへずわらはゝ女の身にて医療(いりやう)の事は露(つゆ)
ばかりも暁(さと)し給はねど眠り玉はざるは気血(きけつ)のとゝのひ給はざるならん此いでゆ
気血を補(おきな)ひ精心(せいしん)をさはやかにするを第一の功(こう)とすればこゝろみに浴(よく)し給へ
その功能に応(おう)じ給ふ事もあるべしさはりとなる事はいさゝかもあるまじといふに
翁(おきな)いかにもとて是よりかの女に《割書:歳ごろ|三十余》入湯させし事十余日なりしにある日
朝食(あさげ)を喰(しよく)する時 碗(わん)をとり二た口三口にして頻(しきり)に眠り持たる碗(わん)をはたと
おとしたるがおどろきもせでねぶければいねんといふに翁(おきな)かたはらにありて大に
よろこび寝所(ねとごろ)へ入れて臥(ふさ)せけるに其日も暮(くれ)て夜もすがらうまく睡(いね)次の
朝も目をさまさずかくて昼夜(ちうや)三日の間(あいだ)息(いき)ある死人のごとくなれば翁(おきな)ははじめの
よろこびにかはりて覚束(おぼつか)なくおもひ主(あるじ)の婦人(ふじん)をまねきしか〳〵のよしをかたりなに
はともあれ三日のあいだ食せざれば飢(うへ)ては病にあしからん起(おこ)すべきやなど婦人
に問ふ婦人(ふじん)のいふ六年が間(あいだ)眠り玉はざりしとなれば一日を一年として六日 臥(ふし)
給ふともくるしかるまじそのまゝに甘(うま)く眠らせ給へとて物の音もはゞかりて眠(ねふる)