翻刻
【18コマ】
【右丁】
金沢といふところにこもり居てけり。あけ
くれはたゝ都の空のみ恋しく。ありし
事なと夢にみて。うちおとろかれたるに
も。かたりあはすへき人しなけれは。なく〳〵
さめぬれとかたるともなきあかつきの
ゆめのなみたに袖そぬれつゝ
なといひて居る。其年も過て
法皇《割書:後宇多》より御召ありて。都に帰り
【左丁】
なんとしける。道芝の便につけて聞は。彼
女もなやましき心地のつもりて。此世に
なきものとなりしとなん。やかて尋ゆき。
其しるしをみるにつけても
おくれゐてあとゝふ法のつとめこそ
いまははかなき名残なりけれ
ありし夢さへねかはしく。塚のほとりの
草枕せしに。雨もそふる
現代語訳
【右丁】
金沢というところに籠もり居た。明け暮れはただ都の空ばかりが恋しく、昔のことなどを夢に見ては、はっと目を覚ますことがあっても、語り合うべき人もいないので、泣く泣く——
覚めぬれど 語るともなき 暁の
夢の涙に 袖ぞ濡れつつ
などと詠んで過ごしていた。その年も過ぎて、
法皇(後宇多)より御召しがあって、都へ帰ろう
【左丁】
とした。道すがらの便りによって聞けば、あの女も、病の気が重なって、この世に亡き者となってしまったとのこと。やがて(その地へ)尋ね行き、その(墓の)印を見るにつけても——
遅れ居て 跡訪ふ法の 勤めこそ
今ははかなき 名残なりけれ
昔の夢さえも懐かしく(見たいと)思われて、塚のほとりに草を枕として臥したところ、雨まで加わってきた——