Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

小野湖山翁小伝 - 翻刻

小野湖山翁小伝 - ページ 22

ページ: 22

翻刻

                       一二 送らず、惨めな状態に陥つたが、苟も史眼ある者は先づ第一指を水戸に折るを躊躇せぬであらう。九 州地方諸有志の如きも、概して水戸諸先達の風を聴て興りたるものと云ふも過言ではあるまい。之を極 めて大つかみに評すれば、水戸人が供給した理想が薩長二藩の物質的勢力と抱合して維新の大業は進行 したのであつた。(徳富蘇峯氏明治維新史の一齣) 翁三十九歳の嘉永五年、対岸の北米合衆国は我国をして開港せしめんことを決議し。水師提督ペリーに 国書を齎らし、軍艦四隻を率て翌年癸丑六月浦賀に着し、通商を乞はしめた。幕府止むなくペリーを久 里濱に於て引見し、諸藩に警報して沿岸の防備を考へしめた。就中水戸齊昭は幕府の命に依り深く海防 の急を考慮し、已に天保三年に於ても寺院の梵鐘を鋳潰し大砲を造らしむ等の論を以て、海防策を考へ たのは有名な談である。ペリーは上陸して国書を幕府に呈し、一と先づ長崎へ去たけれども我国長夜の 鎖国の夢は爰に忽然として一朝に破られ、物情騒然、幕府は事状を朝廷に上奏し 孝明天皇いたく宸襟 を悩ましたまひ。従来幕府の専断にのみ出たる外交内治は、是より以後朝廷の議を経る事と成つた。同 時に攘夷論と開国論とは幕府を中心に交々論議せられ、夫れには幕府外交の軟弱を責る者続出して世論 は錯綜し。水戸齊昭は最も熱烈なる尊皇攘夷論の急先鋒である。其意見によれば  太平打続き候えば、当世の態にては戦ふは難く和は易く候え共。天下一統戦を覚悟致し候上にて和に  相成候はゞ夫程の事は無く、和を主に遊ばして万々一戦に相成候節は、当時の有様にては如何とも被  遊候様無之候。去八日(嘉永六年七月)御話致し候事は海防掛ばかりへ極密になされ、公辺に於ては  此度は実に御打払の御思召にて号令致されたく云々(下略、海防愚存より) と云ふに在り、然るに一方幕府は到底我国の武備を以てしては外国に当り難しと為し、就中老中井伊掃 部守直弼(小字鐵三郎、近江国彦根藩主第十七代直中の十四男)を筆頭として、開国論者の人々は攘夷党 に反対抗争した。一方ペリーの浦賀を去て間もなく。露国使節プーチアーチン軍艦を率て長崎に来り隣 交を乞ひ、樺太千島問題を提出し。安政元年にはペリー再び浦賀に来り上陸し、翌年二月まで幕府との 間を往来した結果、幕府の外交方針は軟化し、和親条約を結び。ペリーは又其五月下田に至り、附録条 約を締結して帰国したが、露使更に大阪湾に来た。其後幕府は相尋で和蘭、露西亜、英吉利、仏蘭西の 各国とも夫々の条約を多きは二十ケ条少きも十数ケ条に亘りて締結し。米国は安政三年更に総領事ハリ スを送り、将軍家定に謁せんことを乞ひ、水戸齊昭之を沮止せんため幕府に上書したが用ゐられず。齊 昭は逆に排斥せられ、ハリスは遂に将軍に謁し国書を呈し厚遇を受けた。是より先き幕府は米国の要求 に依る新通商条約を議定し、之れを実践せんとしたが、世の物議を怖れ調印せず、上奏して勅許を乞ふ ため、林大学頭及津田正路(名は半三郎)を京都に派し調印の勅許を乞はしめた。翁は林大学頭に学び たる事ある縁故で、長詩を賦し発途を送つた。其大意を記せば左の如し 《割書:  林君幕命を奉じ、条約調印の勅許を以て対外策を決せんとすと聞くも、夷虜(外人)は狡猾であるに幕政は振はず。漫に粉々たるの|  みである。宸衷を仰ぎ皇威の発揚を期せんとならば、宜しく真に忠義のこころを振ひ、英断以て攘夷の方針を立て、国防の完成を期すべ|  きである。》 林大学頭左右と共に之れを読み憮然たりしと云ふ。次で老中堀田正睦も亦上洛策動したが、朝議は遂に                        一三

現代語訳

十二 送ることもなく、惨めな状態に陥ったが、史眼を持つ者であれば、まず第一に水戸を指摘することを躊躇しないであろう。九州地方の諸有志のような人々も、概して水戸の諸先達の風を聞いて興ったものと言っても過言ではあるまい。これを極めて大雑把に評すれば、水戸人が供給した理想が薩長二藩の物質的勢力と結合して維新の大業は進行したのであった。(徳富蘇峰氏『明治維新史』の一節) 翁三十九歳の嘉永五年、対岸の北米合衆国は我が国を開港させることを決議し、水師提督ペリーに国書を持参させ、軍艦四隻を率いて翌年癸丑六月浦賀に着き、通商を求めた。幕府はやむなくペリーを久里浜において引見し、諸藩に警報を発して沿岸の防備を考えさせた。中でも水戸斉昭は幕府の命により深く海防の急務を考慮し、既に天保三年においても寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を造らせる等の論をもって、海防策を考えたのは有名な話である。ペリーは上陸して国書を幕府に呈し、一旦長崎へ去ったけれども、我が国長夜の鎖国の夢はここに忽然として一朝に破られ、物情騒然となり、幕府は事情を朝廷に上奏し、孝明天皇はいたく宸襟を悩まされた。従来幕府の専断のみによっていた外交内治は、これより以後朝廷の議を経ることとなった。同時に攘夷論と開国論とは幕府を中心に交互に論議され、それには幕府外交の軟弱を責める者が続出して世論は錯綜し、水戸斉昭は最も熱烈な尊皇攘夷論の急先鋒である。その意見によれば 「太平が続いているので、当世の様子では戦うのは難く和するのは易い。しかし天下一統戦いを覚悟した上で和になるならばそれほどのことはなく、和を主として万が一戦いになった節は、当時の有様ではどうともしようがない。去る八日(嘉永六年七月)お話し申した事は海防掛りばかりへ極密になされ、公辺においてはこの度は実にお打ち払いのお思し召しで号令いたされたく云々(下略、『海防愚存』より)」 ということにある。しかるに一方幕府は到底我が国の武備をもってしては外国に当たり難しとし、中でも老中井伊掃部守直弼(小字鉄三郎、近江国彦根藩主第十七代直中の十四男)を筆頭として、開国論者の人々は攘夷党に反対抗争した。一方ペリーが浦賀を去って間もなく、露国使節プチャーチンが軍艦を率いて長崎に来て隣交を求め、樺太千島問題を提出し、安政元年にはペリーが再び浦賀に来て上陸し、翌年二月まで幕府との間を往来した結果、幕府の外交方針は軟化し、和親条約を結んだ。ペリーはまたその五月下田に至り、付録条約を締結して帰国したが、露使はさらに大阪湾に来た。その後幕府は相次いでオランダ、ロシア、イギリス、フランスの各国ともそれぞれの条約を多きは二十ケ条少なくとも十数ケ条にわたって締結し、米国は安政三年さらに総領事ハリスを送り、将軍家定に謁見することを求め、水戸斉昭はこれを阻止しようため幕府に上書したが用いられず、斉昭は逆に排斥され、ハリスはついに将軍に謁見し国書を呈して厚遇を受けた。これより先に幕府は米国の要求による新通商条約を議定し、これを実践しようとしたが、世の物議を恐れて調印せず、上奏して勅許を求めるため、林大学頭及び津田正路(名は半三郎)を京都に派遣し調印の勅許を求めさせた。翁は林大学頭に学んだことがある縁故で、長詩を賦して出発を送った。その大意を記せば左の如くである。 「林君が幕命を奉じ、条約調印の勅許をもって対外策を決しようと聞くが、夷虜(外人)は狡猾であるのに幕政は振るわず、漫然と粉々たるのみである。宸衷を仰ぎ皇威の発揚を期そうとするならば、宜しく真に忠義の心を振るい、英断をもって攘夷の方針を立て、国防の完成を期すべきである。」 林大学頭は左右と共にこれを読んで憮然としたという。次いで老中堀田正睦もまた上洛策動したが、朝議はついに 十三