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翻刻
しかるに天文元年の兵火にかゝりて神宮僧坊もみな焼亡
しけるを同八年再営ありしよし社記に見えたり又延喜
神名式に愛知郡 孫若御子(ひごわかみこの)神社《割書:名神|大》とあるは此御社の事
ならんかといへるは若宮といふによしありげに聞え又 牛頭(ごづ)天
王の若宮ならんといふ説もあれど共にたしかなる拠(よりどころ)も
なく且若宮八幡宮の称年久しくして普(あまね)く人のしる所
なれば社伝に随(したがつ)て強(しゐ)て私意を贅(ぜい)せず○本社《割書:仁徳|天皇》相殿
《割書:左応神天皇|右武内宿祢》拝殿 神輿殿 末社《割書:熊野社 稲荷社 山王社|天満宮社 連理稲荷社》例祭《割書:六月十五日|試楽ありて》
《割書:翌十六日神輿三の丸天王社まで神幸神主 束帯(そくたい)騎馬にて供奉す母衣(ほろ)負(おひ)二人 鉾(ほこ)八|本 鎗(やり)旗(はた)獅子頭(しゝがしら)及び山車七輌あり中にも黒船の車は更に品かはりたれば図して以て》
《割書:想像(さうぞう)に便りす其余の六輌は四月の山車に等(ひと)しく人形からくりの奇巧は大同小|異にして都(すべ)て四月に劣(おと)らぬ大祭なり美麗の行粧また尋常(よのつね)の神事にはあらねど事》
《割書:繁(しげ)ければこゝに略しぬ又 仁徳天皇 降誕(かうたん)より百年に当る年ごとの九月に御霊祭の式》
《割書:あり近くは元禄二年又寛政元年に行はれ|たる事諸人のあまねくしるところなり》祠官《割書:氷室|氏》芝居小家《割書:境内に|あり》
《割書:仁 徳 天 皇 降 誕 至_二 寛 政 元 年 己 酉_一 凡 一 千 五 百|年 城 南 若 宮 設_二 祭 奠_一 陳_二 雅 楽_一 賦_レ 此 紀_レ 之》
《割書:挺 之》
現代語訳
しかし天文元年の兵火にかかって神社と僧坊もみな焼失してしまったが、同八年に再建されたことが社記に記されている。また延喜神名式に愛知郡孫若御子神社(名神大)とあるのは、この神社のことであろうかと言われるのは、若宮という名によるものらしく聞こえる。また牛頭天王の若宮であろうという説もあるが、どちらも確かな根拠はなく、かつ若宮八幡宮の名称は長年にわたって広く人々に知られているので、社伝に従って無理に私見を加えない。
○本社(仁徳天皇)相殿(左:応神天皇、右:武内宿禰)拝殿、神輿殿、末社(熊野社、稲荷社、山王社、天満宮社、連理稲荷社)
例祭(六月十五日に試楽があり、翌十六日に神輿が三の丸天王社まで神幸する。神主は束帯で騎馬にて供奉し、母衣負い二人、鉾八本、槍、旗、獅子頭及び山車七輌がある。中でも黒船の車は特に趣が変わっているので図示して想像の便りとする。その他の六輌は四月の山車と同様で、人形からくりの巧妙さは大同小異であり、すべて四月に劣らない大祭である。美麗な行装もまた通常の神事ではないが、詳細なのでここでは省略する。また仁徳天皇降誕より百年にあたる年ごとの九月に御霊祭の式がある。近くは元禄二年、また寛政元年に行われたことは人々が広く知るところである)
祠官(氷室氏)芝居小屋(境内にあり)
仁徳天皇降誕より寛政元年己酉に至るまで、およそ千五百年、城南若宮にて祭奠を設け、雅楽を陳し、これを賦して記録する。