翻刻
放(はな)つべし又夜中海水(またやちうかいすい)を攪動(まぜく)らば水(みづ)に光(ひかり)あるを
見(み)るべし是全(これまつた)く水(みづ)の光(ひかり)にあらず極(きは)めて細小(こまか)な
る魚(うを)ありて水(みづ)の動(うご)くに従(したが)ひ鰭鬛(ひれ)を振(ふる)ひ揺動(ようどう)す
るより起(をこ)るものなり肥後肥前(ひごひぜん)の海(うみ)に不知火(しらぬひ)あ
り周防洋(すわうなだ)に平家(へいけ)の怨霊火(をんりやうび)と唱(とな)ふる火(ひ)あるは両(ふたつ)
ながら斯(かゝ)る小(ちいさ)き魚(うを)の莫大(ばくたい)に群衆(くんじゆ)し波(なみ)の浮沈(うきしづ)を
追(を)ひ或(あるひ)は現(あら)はれ或(あるひ)は滅(き)へ或(あるひ)は集(あつま)り或(あるひ)は離(はな)れて
奇怪(きくはい)の状(やうす)を為(な)しぬれど皆(みな)「ぽすぽる」の光(ひかり)にて蛍(ほたる)
火(ひ)も同様(だうやう)のものなれば見物(けんぶつ)の諸人酒(しよにんさけ)を酌(くん)で之(これ)
を楽(たのし)むも幽趣(ゆうしゆ)を得(ゑ)たるものと云(い)ふべし狐火人(きつねびひと)
魂抔(たまなど)と唱(とな)ふる陰火(いんくわ)の類(るい)も亦同(またをな)じく「ぽすぽる」の
火(ひ)なれども沼或(ぬまあるひ)は墓所抔(はかしよなど)の間(あいた)に現(あら)はれ如何(いか)に
も物凄(ものすご)く見(み)ゆるゆへ人々畏(ひと〴〵こは)きものゝ様(やう)に取沙(とりさ)
汰(た)し或(あるひ)は怨霊(をんりやう)の火抔(ひなど)と唱(とな)へ婦人小児(おんなわらんべ)は斯(かゝ)る火(ひ)
に行逢(ゆきを)ふとき震(ふる)ひ恐(をそ)れ甚(はなはだ)しきは気絶(きぜつ)するもの
ありと実(げ)に気(き)の毒(どく)なることなり或(あ)る人夜深(ひとよふか)く
沼(ぬま)を渡(わた)り物凄(ものすご)く思(おも)ひし折柄(をりから)忽(たちま)ち青(あを)き火(ひ)の近(ちか)く
輝(かゞや)くを見(み)たるに漸(ようや)く我方(わがかた)へ寄(よ)り来(く)れば悪(にく)き妖(よう)