翻刻
埋られしと也浅間焼なり音京大坂迄も聞へけると也
川原湯ハ河ゟも余程隔り川ハ両きしにてのぞき見る
程深き處なりしか大木ニて川をセき留メ泥押しあけしと也
其後こゝかしこよりかげろふのもゆることく地ゟけふり立出ける也
此所六里の原といふ浅間山東麓也頼朝公建久四年
三月信濃三原に狩し給ふハ此地なりと云三原庄川
原村 長野原 鎌原 是を三原といふ今に川原村ゟ
浅間のふもと迄を吾妻と云す三原と呼うすひ到下
なども前かたは木立茂りものすごき處有りしに砂降
後大木ハ枯果草ハ砂にうつミしと也
鎌原村浄林寺とて南蛇井最興寺末にして檀家千七百
軒余も有りし禅寺也其日隣村に且用ありて随身の僧
奴僕共にのこりなく引連出けるに壱人の僧のこり居りしか
何かハしらすことなる音の聞へけれバいと怪しの高き光り
見はやと山へ欠あかりのぞ見見るに何事としもわかり侍らさ
りしかバ又高き木にのほりぬ危ふきかな頓而泥水押き
たり彼僧の登り居たる木の枝近き迄泥水おし上り
火石のほのほにてにへかへる水手足に飛付ぬれは其所灸
すへたる跡のことくむらさき色になりてしハらく有りしと也
後に寺の輩立帰りミるに諸堂ふ残押流しぬれハ此
僧も流泉下の人となりし事よといと悲しミ思ひつゝ爰
彼と見廻りぬれバ遥々遠き木高き木の枝に取つき