翻刻
に遺し其帰路に定宿なる伊勢本といへるを尋ねしに最早
類焼して裏之方に案【右に家カ】内の居るよし聞あはせ尋ねあたりて
私大を吐しけれバはからずも御難儀御察し申候得共家内も御覧
之通りにて命たすかりしのみなれバ今夜は何となりともして御凌あ
るべし明朝にも至りなバ飯事の所も程よく取計はんとの事な
れば頼置帰りしと樽蔵語る夫にてハ今夜の食物用意なけれバ
予所々を見あるき食物を求めんと田端大道あるひは御城前の
広き所へ諸人道具を運び家々は壱人も居るものなく其内に
七|間(軒)町といへるにて菓子商売の家の荷物を運ぶ處へ通りかゝり
けれバやう〳〵と願之て串柿六くし柿十八をかひ得たれバし
たり顔にてかへりぬ暮六ツ時前予か荷をつけし馬士先刻捨
ゆきし鞍土大根など取りに来りていふや我家ハ問屋場向ひ
裏なるが過刻灰になりたり世に地獄極楽といへども此外はあら
じ価をもらひて土大根を買し時は極楽夢之間に家を失ひ
ハ地獄しかし伊勢の荷物つけし故馬に少しも怪我なかりしは実に
難有しと悦びて帰りしハ殊勝にも又哀なり悪鬼之如き馬
士さへかくの如く余はおしてしるべし兎角するうち日も暮ぬ
れども夜の物とてハなく漸く古板戸一枚亀屋にて借りうけ
其上に座して三人頭を合せてため息つくのみ四日の月も入ぬれ
バたよりとせし富士の嶺も見へずなりて寒風肌を透し
星のみさえて猶更心細し糠屋清吉といへるより火鉢一ツ
持来り是にて寒さを凌くべしとて置て行ぬあつき心はか