翻刻
老人十月二日の暮方に暫く天を望み居たりしが頓て人々に告げ知ら
せ今宵は必ず大地震あるべし豫て準備あるべしといひて飯を炊き
豆腐|醃(えん)菜【醃菜、塩漬けにした菜・漬物】など取添へて馬場に莚を敷て座し居たり他の人々
は是を誠と信するもあり又笑い譏りて肯はぬも多かりけり兎角
の間に大地震となり門番は傍を見るに邸内都て揺り毀たれ死傷
種々なり主人の堂は如何ならんと入りて見れば是も亦大に破れ火
爐には物の落合ひて火燃えつき既に危き勢なれば門番は声限
りに人を呼び立て水汲み来りて撲滅しけり後日に主人門番を呼び
何とて汝は地震を前知したるや汝なかりせは我【取り消して右に此】家焦土とならん
とて褒美【取り消して右に賞】をぞ与へける門番は拝謝して言ふ様僕元より賤しき身
にして文字を識らず争で天地の変を知り候べき但此身薄命に
して弱年の昔より今老が身に到【取り消して右に至】るまで斯る地震に一度ならず
二度ならず三度まで逢候ひぬ僕郷は越後三条にて去る文政十一年
大地震ありて家倒れ焼けて死するもの数を知らず命は助り候へ共
家財農具残りなく焼失ひ詮方なさに故郷をあこがれ出て隣
国なる信州に移り住みて味気なき月日を送り候ひしに弘化四
年二月に信濃に大地震あり折しも善行寺如来の開帳にて国
々より参詣の人々夥かりしかば死人傷者も亦夥かりしは今も語
り伝ふる処なり初め三条にて披識人の申しゝは凡大地震ある時は
天色朦朧として近く見え星の光り常に倍す又温暖なるもの
なりと聞たるを忘れず毎夜空を眺めて星常の如くなれば心を安
うして寝ひしが信州の地震は二月にて余寒の強き例なるに此頃温