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コレクション: 諸士系譜

諸士系譜 巻之345 も之部1 - 翻刻

諸士系譜 巻之345 も之部1 - ページ 57

ページ: 57

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 月十一日有馬中務太輔殿内山県市郎左衛門  妻守能十郎左衛門女ニ候処病気大切ニ相成  候間為見届忰団十郎遣度旨官記ニ  相見候へ者顕然ニ有之候へ共立場何レニ候哉 女       有賀弥左衛門満清妻  母相馬氏女 女       相馬六郎左衛門重次妻  母同上 図書長勝  母小野田氏女  妻黒河内孫右衛門賢素女《割書:元文五申年七月廿日病死|法名秀善院珞窓瓔全大姉|葬所叶山願成就寺》 一元禄十丑年五月亡父団十郎御知行  三百石幼少ニ付被 召上拾人扶持被下  置幼少組被 召出候事 一宝永三戌年二月小番被 仰付候事 一同年九月江戸為勤番罷登翌  亥三月罷下候事

現代語訳

月十一日、有馬中務大輔殿の家臣山県市郎左衛門の妻(守能十郎左衛門の娘)が重病となったため、見届けのために息子団十郎を派遣したい旨が官記に記されており、これは明らかであるが、その立場がどのようなものかは不明である。 女子 有賀弥左衛門満清の妻  母は相馬氏の娘 女子 相馬六郎左衛門重次の妻  母は同上 図書長勝  母は小野田氏の娘  妻は黒河内孫右衛門賢素の娘(元文五申年七月二十日病死、法名秀善院珞窓瓔全大姉、葬所叶山願成就寺) 一元禄十丑年五月、亡父団十郎の知行三百石を幼少のため召し上げられ、十人扶持を下され、幼少組に召し出された。 一宝永三戌年二月、小番を仰せ付けられた。 一同年九月、江戸に勤番として登り、翌亥年三月に下った。