翻刻
【右頁上段】
して地上(ちじやう)を見れば海嘯(つなみ)襲来の痕跡|最早(もは)や争はれず所々に魚鱗(ぎょりん)の
溌剌(はつらつ)として地上に躍(と)べるものあるより三|人(にん)の下男は心を奪(うば)はれ
「や旦那様|明日(あす)はこりや好(よ)い肴で一|杯(ぱい)飲めます」とて地上(ちじやう)の肴を
拾(ひろ)ひ集つめつ余念(よねん)なし
琢治は心|急(いそ)ぐまゝ三|人(にん)の下男を叱(しか)り飛ばしつ海浜(かいひん)さして急ぐ事(こと)
一|町許(ちやうばか)り号泣悲鳴の声(こゑ)闇に徹して凄(すさ)まじく逡巡する下男(げなん)を励(はげ)ま
し声(こゑ)を知るべに辿(たど)り行けば或は老媼(らうおう)の潮水にむせびて早(は)や虫の
息気(いき)なるあり或は若著(わかもの)の壊材に打(う)ち敷かれて起(お)きんとすれど深(ふか)
傷(で)の痛みに力弱りて唯(たゞ)苦(くる)しげに唸るあり千|態(たい)万状深浅|軽重(けいちやう)の差
別はあれど皆(みな)一|様(やう)に半死半生の体(たい)となつて算(さん)木を乱し倒れ居(を)る
より琢治は恰(あたか)も狂気の如く三|人(にん)の下男(げなん)を指揮して此(この)負傷者(ふしやうしや)を己(おの)
が邸宅(やしき)に運び入れさせ猶(なほ)隣家の若著(わかもの)をも叩き起(おこ)して手伝はせ其(その)
邸宅(ていたく)は玄関とも云(い)はず大広|間(ま)とも云はず書院(しよゐん)も寝室も全家(ぜんか)挙り
て病院に充(あ)て箪笥(たんす)長櫃(ながびつ)よりは夫婦の晴衣(はれぎ)袷綿入(あわせいれ)単衣(ひとへ)の別なく片
端より取り出(いだ)して夫婦(ふうふ)の衣類悉皆を負傷者(ふしやうしや)なれば一々|傷所(きずしょ)を療治して是(これ)に繃帯を施(ほどこ)し夫婦徹夜|少(すこ)しも眠(ねむ)ら
ず猶(なほ)翌日も引継き負傷者(ふしやうしや)を集めたれば救難(きうなん)の傷者殆んど八十余
人(にん)さしもに広(ひろ)き邸宅も遂(つひ)には傷者の置(おき)場に狭隘を感(かん)じ今は殆ん
ど夫婦(ふうふ)の衣類(いるゐ)も皆負傷者に着せ果(はて)てゝ夫婦が今(いま)着せし衣類の外
に一|物(ぶつ)なし琢治つく〴〵|思(おも)ふやう猶|此(この)上に幾多の死傷者(しゝやうしや)あるや
を計らず是が運搬(うんぱん)飲食にも今後(こんご)幾何(いくばく)の人手を要(えう)し又幾何の米穀(べいこく)
衣類(いふく)を要するやを知(し)る可(べか)らずされど今(いま)此(この)役場なく警察(けいさつ)なく郡
役所なく殆(ほと)んど無(む)政府同様の場合(ばあひ)に当り尋常一様にては臨機(りんき)の
救難(きうなん)を為し遂げ難(がた)くよし〳〵|我(わ)れ仮に数条(すでう)の規定を設け是に
従(したが)はざるものは我命(わがいのち)を賭して是を決行(けつかう)せしめんと救難(きうなん)憲法七章
を作(つく)り此(この)憲法(けんぱう)に違反するものは銃殺(じうさつ)す可しと決心(けつしん)す七章の救難
憲法(けんぱう)左(さ)の如(ごとし)
【右頁下段】
一|総(すべ)て男子は各家(かくか)に幾人あるを問はず悉く人夫に出(い)づ可(べ)き事
一|順番(じゆんばん)に依(よ)り婦人五|人(にん)宛(づゝ)負傷者の看護(かんご)に従事す可き事
一|人夫(じんぷ)の内より五|人(にん)を選(えら)宿直せしめ非常(ひじやう)に備(そな)ふる事
一|順番(じゆんばん)に毎日(まいにち)豆腐(とうふ)三十個を製(せい)し負傷者に供(きやう)す可き事
但|大豆(だいづ)不足(ふそく)ならば種子用(たねよう)大豆(だいづ)を用(もち)ゐる事(こと)
一|各戸(かくこ)より蒲団(ふとん)一枚宛を出(だ)し負傷者に給(きふ)する事
一|畳(たゝみ)も前項(せんかう)に同(おな)じ
一|人夫(にんぶ)総数(そすう)を左(さ)に
内(うち)十二人は負傷病者の運搬(うんぱん)に従事す可(べ)き事
内(うち)五人は炊事|其他(そのた)雑役(ざつえき)に従事す可(べ)き事
其他(そのた)は悉く屍体(したい)捜索(そうさく)及其(その)処置(しょち)を為(な)す事(こと)
右(みぎ)之|命(めい)に違反する者(もの)は直に銃殺(じうさつ)す可き事
琢治が遭難(さうなん)の負傷者を救(すく)ふに急なる真実(しんじつ)以上の憲法に違反(ゐはん)する
ものは之を銃殺(じうさつ)するの考へなりしならん彼(かれ)が愛(あい)せる猟銃(れうじう)に銃丸
こめて床(とこ)の間(ま)に飾(かざ)り置き生存(せいそん)の家族を呼(よ)び集へて一々|是(これ)に厳命(げんめい)
を下(くだ)すに予て名望(めいばう)ある数代の医師(ゐし)とて誰(だれ)ありて其命(そのめい)に背くはな
く皆(みな)琢治の義侠を見倣(みなら)ひ快よく負傷者|運搬(うんぱん)看護(かんご)に尽力せしかば
琢治も大(おほい)に力を得て唐丹一村は残(のこ)る隈なく捜索(さうさく)させ負傷者は之
を我(わが)邸宅(ていたく)に運び入れさせ屍体(したい)は之を一|所(しょ)に集(あつ)め引取人(ひきとりにん)あるもの
は引渡(ひきわた)しなきものは厚(あつ)く之(これ)を葬り兎角(とかく)する間に琢治が貯蔵(ちょざう)の薬
品繃帯尽き果てたり此第(このだい)一の困難に屈(くつ)せず琢治は馬(うま)を飛(と)ばせて
薬品(やくひん)買入(かひい)れの為(た)め釜石に至(いた)る釜石の惨状|亦(また)激烈(げきれつ)にして薬品(やくひん)どこ
ろにあらざれば早速(さつそく)鉄長組の鉱山(くわうざん)に馳(は)せ付(つ)け鉱山医(くわうざんゐ)に惨況(さんきょう)を説(とい)
て薬品(やくひん)繃帯(ほうたい)の幾分(いくぶん)を借り受(う)け一ト先(ま)づ安堵(あんど)して家(いへ)に帰(かへ)りしが第(だい)
二の困難(こんなん)は間(ま)もなく来(きた)りて負傷者に給与(きふよ)す可き紙類(かみるい)悉皆(しつかい)尽(つ)き果
てぬ障子(しやうじ)襖(ふすま)も之を剥がして骨(ほね)を顕はし今(いま)は早や詮方(せんかた)なければ命
じて数代(すうだい)の蔵書(ざいしょ)を出(いだ)させ四書五|経(けう)を始めとして其他(そのた)の珍書(ちんしよ)を引
【左頁挿絵二枚】
【上題】
志津川の人民汽笛を聞て騒擾するの図
【下題】
釜石の永沢某遭難の図