翻刻
【右頁上段】
時頃には全(まつた)く退(ひ)き去りたりと
○釜石町の惨状 今回の海嘯(つなみ)は湾口の東南より来(きた)りて西北の
高地を襲ひ鉄道線路を越(こ)へて再び東南に去(さ)りたるものゝ如し当
夜は混雑(こんざつ)に取紛(とりまぎ)れて何事とも見分け得(え)ざりしが翌朝に至(いた)りて見
れば目も当(あ)てられぬ惨状にて釜石全町は殆(ほと)んど流亡し只だ高台(たかだい)
の所(ところ)に人家十数軒の存するのみなりき此に不思儀(ふしぎ)なるは斯る惨
况の内に土蔵の三|棟(むね)残(のこ)り居たる事なり這(こ)は建築の良好(りやうかう)なりしに
や将(ま)た水勢の弱かりしにや判然(はんぜん)せざれど兎に角一|奇(き)なりと謂ふ
べし又(ま)た海岸の桟橋は微塵(みぢん)となりて其影を止めず海岸(かいがん)には杭柱
のみ残りて木片(もくへん)等は十余町|離(はな)れたる高地に打上げらりたり此(この)桟(さん)
橋(ばし)は鉱山より出る所の鉄を運ぶために設(まう)けたるものにて上には
二条の鉄軌(れーる)を敷きて汽車の往復し居たる堅牢(けんろう)のものなりしに斯
る有様(ありさま)となりたるを見れば其|浪勢(らうせい)の激甚なりしこと知るべし又た
鉄道線路は平地(へいち)より高きこと七|尺(しやく)なりしに浪は其上を越(こ)へて線
路を崩壊(ほうくわい)せしめ鉄軌は土手の下に押流(おしなが)され線路に架(か)したる小橋
は悉(こと〴〵)く流(なが)れ去りぬ尚ほ一層甚だしきは海岸(かいがん)に繋ありたる鉱山
用(よう)の船舶二隻が薬師堂(やくしだう)の近辺に打上げられたる事(こと)にて這は最初
東南の方より海嘯の来りたる為め海岸より西北の方(かた)なる薬師堂
の辺に持ち来られたるものなり
○釜石町の位置 釜石町は海岸に在(あ)りて鉱山事務所までの距
離十八町なるが道(みち)はタラ〳〵|上(あが)りとなりて其(その)勾配(こうばい)は三十尺に過
ぎざれば殆(ほと)んど平地と云ふも不可(ふか)なし釜石の住民は重(おも)に漁業を
営(いとな)み閑暇(かんか)なる際には鉱山の人夫となるもの多(おほ)し家屋は漁家の事
とて藁葺(わらぶき)柾葺(まさぶき)の如き粗造なるもの多(おほ)けれども中には立派(りっぱ)なる建
築をも見受けたりし海岸(かいがん)は岸際まで水(みづ)の来りて小さき船は横付
となすを得(う)べく平常にても満潮(まんてう)の際は陸上に侵入(しんにう)するほどなり
き此回(このたび)最(もつと)も多く害を被りたるは湾口(わんこう)の左右に当(あた)りたる所にて
【右頁下段】
却つて洋中に突出せる所には被害|少(すく)なしと云(い)ふ釜石鉱山は被害
を免(まぬが)れたるため構内に居るものは一人の怪我人(けがにん)もなく只海岸に
在(あ)りし桟橋(さんばし)係甲子川岸に在りし水車等係四十余名流没したっるの
みなりと云々
○又釜石地方に於て大海嘯に逢(あ)ひ九|死(し)に一生を得(え)たる航路標識
所の技手(ぎし)山本才三郎氏が遭難の実況を語るを聞くに左の如しと
云ふ
○海上には異変なし 山本技手等の一行は釜石湾口に横はる
暗礁(あんせう)を認識(にんしき)せしむるため立標(りつべう)を建設するの命を帯(お)びて同地に出
張し居(ゐ)たるが去(さ)る十五日も例の如く他の技手(ぎしゆ)と共に潜水夫、人
夫|等(ら)を引率し海上を距(さ)る一哩ばかりなる暗礁(あんせう)に至りて仕事(しごと)をな
し居りしに海上(かいじょう)には何の異変をも認(みと)めず只だ瓦斯の深(ふか)く蔽ふの
みなりしが是(こ)れとて東北地方には珍らしからぬ現象(げんしやう)なれば誰と
て心(こゝろ)に留(と)めるものなく其日は午後五時迄|仕事(しごと)をなし尚ほ日没に
間(ひま)あれども折柄五月の節句に当(あた)りたれば人夫等の請願(せいぐわん)に任せて
右の暗礁を引揚げたるが神(かみ)ならぬ身の災害の来(きた)るを知らざれ
ば互(たが)ひに明日(あす)を約(やく)して立別れたり
○技手身を以て免かる 山本技手の旅宿(りょしゅく)は海岸(かいがん)を距る五町ば
かりなる津村と云ふ高台(たかだい)の所にありたるが技手(ぎしゅ)は旅宿に帰りた
る後(のち)入浴をなし晩酌(ばんしゃく)を傾(かた)むけなどして居たるに午後八時過と覚
ぼしき頃何やらん怪しき響(ひゞき)の聞えたれども同日は雨天(うてん)なれば空
気の塩梅(あんばい)にて鉱山通ひの汽車の響(ひゞ)くならんと思ひたるが響は益(ます)
々(〳〵)激(はげ)しくなりて人の叫(さけ)び声さへ雑りけるにぞ二|階(かい)に出でゝ外面
を見(み)やりしに暗さは暗し何事なるやは分(わか)らざれども汽車と思ぼ
しき響(ひゞき)は鉱山の方に聞(きこ)えずして却つて手近なる海岸の方に聞え
たれば偖(さ)ては海岸の地の割けて水(みづ)の湧出したるならんと思ふ間
もなく旅宿の家内は水(みづ)が来(き)た水が来たとて大騒(おほさわ)ぎをなすより技
【左頁挿絵二枚】
【上題】
重茂村の漁夫海上の漂民を船幽霊と為して救助せざる図
【下題】
志津川の江山亭男世帯にて旅客を遇するの図