翻刻
【右頁上段】
○海を睨(にら)んで絶叫す 三十前後の男あり海(うみ)に向(むかつ)て演説を為し
つゝあるかの如く見ゆ怪(あやし)みて之を見れば彼が双眼よりは熱涙(ねつるゐ)を
ハラ〳〵と流し
オレのおカタ (女房(にようぼう)の事なり)に何咎(なにとが)あるオレのワラシ (男(おとこ)の
子の事なり)に何恨(なにうらみ)あるヨタ(海嘯の事なり)を起(おこ)した海が恨(うら)
めしい、海め〳〵
と繰返(くりかへ)しつゝ人目も愧(は)ぢず泣叫ぶ其身|家(いへ)に在)あ)らざりし為め僅に
災を免(まぬが)れたりと雖も家に帰れば最愛(さいあい)の妻子と家財(かざい)とを合せて之
を毒浪(どくらう)の為に持去らる彼が半狂乱(はんきやうらん)となつて絶叫(ぜつけう)する亦宜ならず
や、惻怛の極(きよく)其名を問(と)へば『名なんぞは御じやりやせぬ』と嗚呼
彼は自(みづか)らの名を忘るゝまでに其|神(しん)を狂(くる)はせたり之(これ)を聞くもの誰
か一|掬(きく)の涙なからんや
○巨樹の根こぎ 震古(しんこ)未曽有の大海嘯とて沿岸|到(いた)る処の巨樹(きょじゅ)
而(しか)も三抱へ四抱へあるものが悉く根(ね)こぎにされて其処彼処(そこかしこ)の岩
角に打付(うちつけ)らるゝや何れも四ッ五ッに折断(せつだん)され其勢の凄(すさま)じき形容
ずべきの文字(もんじ)を知(し)らず
●重茂村
重茂村の内小字姉吉と称(しやう)する所は激浪|家屋(かおく)より高き事百尺に及
び全戸数(ぜんこすう)十一戸悉く流失し総人口(そうじんこう)七十八名の内七十二名は溺死
し僅(わづ)かに七名のみ生存(せいぞん)したれど是亦重傷を負へる為め今日(こんにち)迄に
五名|死亡(しぼう)して残り二名のみ病床に呻吟(しんぎん)し居れり
○海に水なし 宮古の漁夫(ぎょふ)にて重茂の小字根瀧といふ所へ鮪(しび)
網(あみ)の出稼(でかせぎ)に赴き居るもの三十二三人あり監督者(かんとくしゃ)の高橋治之助は
夕飯の際|沖合(おきあひ)の鳴ること頻(しき)りなりければ戸を明(あけ)て之を窺ひしに
不思議々々海の極て深(ふか)き処まで一|滴(てき)の水(みづ)だになかりしかば扨
こそ海嘯に相違(さうゐ)なしと慌しく之を一同に伝(つた)へて後の山に逃上(にげのぼ)り
しも十三名は無惨や万仭(ばんじん)の海底に葬(はうむ)られたり又治之助が戸を明
【右頁下段】
けて見し時は夥しき漁船(ぎょせん)の隻影を認(みと)めざりしとなり
○大木と大石 重茂村大字重茂の中央(ちうおう)に高さ六丈余ある槻の
大木あり村民(そんみん)は之をカクラの神と祭(まつ)り居(お)りしが海嘯は其槻の上
を越せしといふ又同村金比羅前に五十人持の大石(おほいし)ありしが海嘯
の為め四十間の高所(かうしょ)に飛ばされたり其他大石数個|海底(かいてい)より投上
げられ一見其勢の猛烈(もうれつ)なりしに驚かざるはなし
○重茂村長|助(たす)かる 重茂村長西舘富彌氏は八人|力(りき)ある大の男
なり当夜(たうよ)は早く寝床に入りしが其妻|異(こと)なりたる響(ひゞ)きありとて西
舘氏を呼起し先づ雇人(やとひにん)をして戸外の様子(やうす)を伺(うかゞ)はせしに同人は一
見するや否や逃出せり依(よつ)て更(さら)に子供をして伺(うかゞ)はせしに是亦雇人
と同様なりしかば氏は訝(いぶか)りながら起出づる此時|遅(おそ)く彼時|早(はや)く高
さ廿四五間もあらんかと思ふ激浪|居宅(きょたく)を指して襲(おそ)ひ来り氏の体
を梁(はり)の上へ持上げたれば氏は僅に之に縋(すが)りて辛き命を助かりた
り又氏の姪(めい)は当歳の小兒を負ふて逃出せしが垣根(かきね)の処にて材木
の為め其|首(くび)を押付(おしつけ)られて惨死したれど小兒は無事にてありしといふ
○村長|泣(ない)て怒(いか)る 前項に記(しる)したる如く西舘富彌氏一家悉く滅
亡し自身亦数ヶ所に軽傷(けいしやう)を蒙ふりしかど一村の惨状に杖(つえ)を力に
奔走(ほんそう)指揮する所あり医者(いしゃ)もなし人夫もなければ患者(くわんじゃ)の救護も心
に任せず向(むか)ふ脛(すね)を打砕かれたる患者あり痛苦(つうく)に堪へず偃臥(えうぐわ)して
飲食皆他|人(にん)の手を待つ西舘氏|態(わざ)と声荒らげ其|位(くらゐ)の疵(きず)で飲食に人
手を仮る馬鹿(ばか)があるか自分(じぶん)で飲食が出来なきや死ぬが宜いト怒
罵して泣く患者之れに激(はげ)まされ翌日(よくじつ)より泣きながら痛を忍(しの)び起
上り飲食(ゐんしょく)するに至れり村長傍人に語(かた)りて曰(いは)くコンナ無慈悲(むじひ)を言
ふのも生残つたからだオレは死(し)んだ方(ほう)が宜かつたと
○妻子を棄(す)てゝ|書類(しょるい)を全ふす 重茂村は海岸に突出(とつしゅつ)したる半
島にて村民(そんみん)等は一定の区域内に於て漁業の権利(けんり)を有せるに近来(きんらい)
【左頁挿絵二枚】
【上題】
大舟渡の民被害後仮屋に疲労を慰むるの図
【下題】
大浦村某家の妻女衣服を柱に挟まれたる為め溺死を免かるの図