翻刻
【上段】
とを馬に乗せ自身(じしん)之を引きて日暮後居村に入りたるに残酷(ざんこく)なる
海嘯は此|和気靄々(わきあい〳〵)たる一家族を馬と共に波濤(はたう)の中に持去り挙家
全滅の悲運(ひうん)に陥らしめたりと実に惨憺(さんたん)の極(きょく)といふ可し
○涙の種 大字八木と大字|宿戸(しゅくのへ)との間なる道路(だうろ)の隅に二十六
七歳の婦人(ふじん)の死骸あり脛(はぎ)もあらはに惨状を呈し居たれば浅沼郡
長は人夫(にんぷ)をして筵(むしろ)を懸けしめたり又八木と大字(おほあざ)小子内との間(あひだ)に
三歳|許(ばかり)の男の子死し居たるが眠(ねむ)るが如き死顔(しがほ)は一層の哀を増し
て一行をして惻然(そくぜん)たらしめぬ扨(さて)取片付の都合あれば其小兒の死
骸をば右の婦人の死骸の傍らに持往(もちゆき)しに折柄(おりから)小子内の者にて五
十歳許の老婆(らうば)娘と孫とを尋(たづ)ね来りて郡長等の一|行(かう)に逢(あ)ひたり郡
長等は右の死骸を示(しめ)せしに『是(これ)で御坐る娘と孫とで御坐る』と
て人目(ひとめ)も愧ぢず泣伏(なきふ)したれば郡長等は奇異の思(おもひ)を為し母子の魂
魄此土を去らず其|死骸(しがい)を一つ所に寄せしめたるかとて佛者(ぶつしゃ)の因
縁などいふ事思ひ合せ坐(そゞ)ろ涙(なみだ)に暮れけるとなん
○帰れば家なし 小子内の漁夫(ぎょふ)一艘の船に乗じ遙(はる)かの沖合に
出でゝ|鮪漁(しびれう)に従事し居たるに十五日の夜八時過に至り何故(なにゆへ)か網
を覆(くつが)へされて折角の獲物を逃せしのみか異常の濁潮(だくてう)流れ来るに
驚き翌朝(よくてう)に至り帰り来れば海岸(かいがん)全く洗(あら)ひ去られて家の何れに在
りしやに惑(まど)ひたりと
○流材(りうざい)に助けらる カヌカの漁夫(ぎょふ)父子二人して海岸の納屋(なや)に
往き夜番(よばん)を為して居りし所へ大海嘯|襲(おそ)ひ来て納屋と諸共(もろとも)山手に
押流(おしなが)されたるが納屋は引汐(ひきしほ)に持去られたるも父子二人は山に取(とり)
残(のこ)されたり然れど頭(あたま)の上(うへ)には夥しき茅(かや)の重(かさ)なり居るにぞ子を抱
きながら之を取除(とりのけ)んと逸(はや)れど隨て除けば隨て被(かぶ)さり今一回海嘯
の来りなば無論(むろん)海底の藻屑(もくづ)とならんと覚悟(かくご)せし折柄巨材流れ来
て茅(かや)を排(はい)し去りしかば僅に山に這上(はひあが)るを得て父子をば九死の中
に救ひたりといふ
【下段】
●湊村
一|破屋(はおく)の下より小兒の死骸を発掘(はつくつ)せるあり身体膨脹して赤胴の
金錆(かなさび)を帯ひて古びたるが如く胸腹|大皷(たいこ)の皮(かは)のやうに張(は)れる上(うへ)に
巡査が石灰乳(せきくわいにふ)を注ぐ都度々々蠢々として無数(むすう)の小蟲出で散じ顔
面の四宮は僅かに痕跡(こんせき)を止め柱材にや砕(くだ)かれけん右腕(うわん)は影をも
止めず直腸にぢり出ること一二寸|具(つぶ)さに惨虐を極(きは)む翁媼爺嬢相集
て見る壮丁(さうてい)あり一婦人を呼で曰(いは)く「是れ汝の兒にあらずや」婦人
は茫然(ぼうぜん)として見詰め居たりしが「然り妾が愛児(あいじ)なり」答え了つ
て猶茫然|死体(したい)を見詰むる事初めの如し巡査乃ち注意(ちうい)を与えて曰
「速(すみや)かに持ち去りて懇ろに葬るべし」婦人は宛(さなが)ら機械人形の如く
唯唯として死体に近づき敷きたる荒筵(あらむしろ)の両端を右手に握みてサ
ッサと持去(もちさ)れるさま手桶(ておけ)の水を運ぶに異らず動作(どうさ)総て平気毫も
感情を害せざるものゝ如し惨痛(さんつう)も亦茲に至て極まれりと謂べし
●遭難者酒井技手の実況 巌手県の土木(どぼく)技手(ぎしゅ)酒井鐵二郎氏は
六月十五日大海嘯に捲込(まきこ)まれ万死の中に一|生(しょう)を得(え)たるが氏が六
月二十日|付(づけ)を以(もつ)て同県知事に具申(ぐしん)したる詳報に云く六月十五日
は朝来(てうらい)陰雲|暗憺(あんたん)として時々|降雨(かうゝ)あり梅雨の候(こう)とはいへ如何にも
鬱陶敷非常に人意(じんい)をして不快(ふくわい)を感ぜしめたるも市中(しちう)家々旧暦五
月五日に相当(さうたう)するを以て端午(たんご)の祝酒を催さんと別(べつ)に意(い)に介(かい)する
所もあらざりしが晩暮七時五十分に水平(すゐへい)の微動(びどう)あるを始(はじめ)とし八
時頃に至りて再び動揺あり晩食(ばんしょく)に就く凡そ五分にして震動(しんどう)の大
を感(かん)じたれども其|度合(どあひ)は釣ランプの動揺は左程(さほど)にはあらざりし
なるも之に反(はん)して身体の震動(しんどう)は益大なるを感じ漸く其|食(しょく)を終(おへ)ん
とする頃 (凡八時十分頃)忽然(こつぜん)戸外庭師に於て「ピストル」を発射
したる如き音響(おんきやう)を耳にし益奇異の思を起(おこ)したるが八時十五分頃
となるや東方(とうほう)海岸に当りて俄然|鳴動(めいどう)を始め汽船据付の機関(きくわん)振動
の如き感(かん)あり大ならず小ならず上下一定の微動(びどう)にして震動愈々