翻刻
【右頁上段】
益々強きを加(くわ)へたり依て蹶起(けつき)して東方の海面(かいめん)を見るに牛島と称
する島嶼(たうしょ)の方面に当りて大空|朦朧(もうろう)として薄赤面を呈し鳴動(めいどう)の方
位も同一にして右方(うはう)々面には此の暴状(ぼうじやう)なし是れぞ天変地異(てんぺんちい)の徴
ならんと立退(たちのき)の用意に掛るや否や寄州中|建設(けんせつ)しある数十の納屋
小屋轟然|破竹(はちく)の勢を以て壊倒(くわいたう)し来りたれば海嘯なり海嘯なり速
に戸外(こぐわい)に出づべしと叫びて駈け出たるも如何せん四辺|暗黒(あんこく)にし
て事物を識別(しきべつ)する能はず躊躇する中に身は既に数十丈の怒濤(どたう)に
襲はれ両足を払(はら)はれて激浪(げきらう)に捲き込まれたるが会々|流失(りうしつ)の土蔵
らしきものに衝突(しやうとつ)して頭部を撲ち此時|身体(しんたい)の三四|回転(くわいてん)するを
覚えたり水上(すいじやう)に泳ぎ出てんとすれば頭上(づじやう)には巨材と塵芥(ぢんかい)の満ち
〳〵て身は益々|水底(みなそこ)に押流さるゝのみ依て到底(たうてい)水面に泳(およ)ぎ出る
能はざるを覚悟(かくご)し呼吸を止めて濁水(にごりみづ)を口にせざることを勉(つと)めたり
夫より五六分|過(すぐ)るとぞ覚(おぼ)ふる頃は水面(すゐめん)に頭首を擡(もた)げ出し三四回
呼吸(こきう)するを得るや否や又々大家屋の前面(ぜんめん)に横はるあり激流(げきりう)に逆
らふ力(ちから)なく再び此廻転中に吸ひ込まれたる後は只管(ひたすら)身体の疲労
を防がんことをのみ考へしが併(しか)し最早此時に至りては呼吸(こきう)を止
め得ず窮迫(きうはく)の余り二三回|濁水(だくすゐ)を吸収するや苦痛(くつう)煩悶小時も措(お)く
能はざりしが此時(このとき)既に身体の疲労(ひろう)甚しく人事|不省(ふしやう)となりしが如
し後|微(かす)かに人の呼(よ)ぶ声(こえ)を聞くと感ぜしが偶人の来りて大材(だいざい)の間
に夾(はさ)まりしを救(すく)ひ揚(あ)げられたるが最初(さいしょ)宿泊し居たりし湊村より
一里|以外(いぐわい)の久慈町大字門前琴比羅台の上(うへ)にある一|小寺(せうじ)に在らん
とは顧みて四辺を窺(うかゞ)へば只悲鳴|慟哭(どうこく)の声あるを聞くのみ暫(しば)らく
して人肩(じんけん)に憑り久慈町病院に向はんとし下門前に至るや警官数
名に出遇ひ警官(けいくわん)等最早や医師の来る筈(はず)に付|暫時(ざんじ)待べしと告ぐ
るあり一|農家(のうか)に憩ひ午前二時頃に至り医師出張負傷の検査(けんさ)を受
け再び人肩に憑(よ)りて午前六時頃に久慈町|病院(びやうゐん)に着したるが実に
不思議にも万死(ばんし)の内に一生を得たり
【右頁下段】
同僚(どうれう)雇佐藤内蔵治氏は大字|門前(もんぜん)兼田和吉方に寓居(ぐうきょ)せし当日も朝
より降雨に付酒井氏の宿所(しゅくしょ)に於て事務を執り夕方(ゆうがた)に帰宿(きしゅく)せしが
遂に此夜(このよ)の出来事に非業(ひごう)の死を遂げ泥土中に埋もれ居たる死体
をば漸く翌十六日の夕方(ゆうがた)に及びて発見(はつけん)し得たり云云
○雑聞
○海嘯の前兆 海嘯の起(おこ)る数日前より屡ば地震(じしん)あり東北より
西南に動揺(どうえう)す而して其動揺の状普通の地震に異(こと)なり今より之を
思(おも)へば実に海嘯の前兆(ぜんてう)なりしなりといふ者あり
○南部の潮勢と北部の潮勢 南部の志津川町辺りにては最初
の一波|非常(ひじやう)に猛烈(まうれつ)にして第二回第三回は緩慢(くわんまん)なりしとといひ北部
の広田村辺りにては第一第二の波は緩慢なりしも第三回の波頗
る猛烈にして人家は之が為めに流失(りうしつ)せりと
○節句と人の心 節句祭(せっくまつり)の為めに助(たす)かりし者あり死せし者あ
り死せし者の遺族(ゐぞく)は節句の無情(むじやう)を怨み助かりし者は節句(せっく)の幸を
説きて相(あひ)慶吊(けいてう)す節句心なし人に心あるのみ幸と不幸とは実に意
外の処に生す
○海嘯前の大干潮 古来(こらい)の前例(ぜんれい)に徴するに海嘯(つなみ)の起(おこ)る前には
必ず海潮(かいてう)の非常(ひじやう)に減退(げんたい)する由は兼て聞及(きゝおよ)び居りしが現に本吉郡
御嶽村|地方(ちはう)の海面は海嘯の当日午後三|時(じ)頃(ごろ)稀有(けう)の大干潮(おほひしほ)にて平
時十|尋余(ひろよ)の深さある辺までも干潟(ひがた)と為ししかば老人抔は変災(へんさい)の
前兆(ぜんてう)ならんとて憂慮(いうりょ)し居たりと云ふ
○海嘯の潮流に就て 岩手県の水産家小松熊次氏の談話によ
れば今回|海嘯(かいせう)の節十里以上の沖(おき)にありて漁猟に従事(じゆうじ)し居りし者
は毫も海嘯を感ぜざりしが一里以内の沖(おき)にありし者は北の方(かた)よ
り一条の大波海岸に際立(きはだ)ちて疾風の如く奔騰(ほんとう)し来るを見ると思
ふ間もなく己れの船は遙に南の沖に押し流されたりと又或る漁
師は綾里村の沖(おき)に当(あた)りて一個の大水柱|雲(くも)の上(うへ)迄立ちて山の影(かげ)を
【左頁挿絵二枚】
【上題】
唐丹村惨況の図
【下題】
釜石町被害後惨況の図