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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之17 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之17 - ページ 6

ページ: 6

翻刻

【右丁】 入谷(いりや)  庚申堂(かうしんたう)   喜宝院(きほうゐん)に安(あん)す   摂(せつ)の四天王寺(してんわうし)の   青面金剛(しやうめんこんかう)と   同作の霊像(れいさう)     なりと      いへり 【左丁】 金光山養玉院(こんくわうさんやうきよくゐん) 下谷坂本(したやさかもと)壱丁目の南(みなみ)にあり天台宗(てんたいしう)にして往昔(むかし)は今(いま)  の 御城内(こしやうない)大手(おほて)の辺(あた)りにありしと慶長(けいちやう)の頃(ころ)今(いま)の地(ち)に遷(うつ)させらる往(その)  古(かみ)は三藐院(さんみやくゐん)と号(かうし)けるを宝永(はうえい)年間 今(いま)の名(な)に改(あらたむ)るといへり当寺(たうし)に釈迦(しやか)  の涅槃像(ねはんさう)の画軸(くはちく)一幅(いつふく)を蔵(さう)す上(うへ)に慈眼大師(しけんたいし)の讃(さん)あり三国伝燈大(さんこくてんとうたい)  僧正天海書(そうしやうてんかいしよ)としるせり毎年(まいねん)二月十五日 是(これ)を拝(はい)さしむ 薬王山善養寺(やくわうさんせんやうし) 延寿院(えむしゆゐん)と号(かう)す同所 坂本(さかもと)壱丁目の左側(ひたりかは)にあり天台(てんたい)  宗(しう)にして本尊(ほんそん)は薬師如来(やくしによらい)を安(あん)す《割書:寺僧(しそう)云(いふ)此(この)本尊(ほんそん)は小野照崎明神(をのてるさきみやうしん)の本地仏(ほんちふつ)なり|このゆへに小野照崎明神(をのてるさきみやうしん)の社(やしろ)は遥(はるか)に此地(このち)を離(はな)るゝと》  《割書:いへとも当寺(たうし)薬師堂(やくしとう)に|相対(あひたひ)せりとなり》当寺(とうし)は天長(てんちやう) 年中 慈覚大師(しかくたいし)の草創(さう〳〵)本尊(ほんそん)も同(おなし)大師(たいし)  の作(さく)なりといへり額(かく)に円満(ゑんまん)の二字(にし)を刻(こく)す黄壁木庵老人(わうはくもくあんらうしん)の筆(ふて)また  境内(けいたい)に閻魔堂(えむまたう)あり閻王(えむわう)の像(さう)は運慶(うんけい)の作(さく)なり正月七月十六日 参(さん)  詣(けい)群集(くんしふ)す《割書:或人(あるひと)云く当寺(たうし)閻王(えむわう)の像(さう)は野州(やしう)足利学校(あしかゝかくかう)にありし|聖像(せいさう)なりしを故(ゆへ)ありて後世(かうせい)こゝにうつしたりと》 小野照崎明神社(をのてるさきみやうしん  ) 同所三丁目の右側(みきかは)にあり祭神(まつるかみ)参儀(さんき)【議】小野篁(をのゝたかむら)の  霊(れい)なりといへり社伝(しやてん)あれとも詳(つまひらか)ならす故(ゆへ)に姑(しはらく)こゝに略(りやく)す当社(たうしや)は坂(さか)

現代語訳

【右丁】 入谷  庚申堂   喜宝院に安置されている   摂津の四天王寺の   青面金剛と   同じ作者による霊像     であると      言われている 【左丁】 金光山養玉院 下谷坂本一丁目の南にあり、天台宗で、昔は現在の江戸城内大手門の辺りにあったが、慶長の頃に現在の地に移転させられた。その昔は三藐院と号していたが、宝永年間に現在の名前に改めたと言われている。当寺には釈迦の涅槃像の掛け軸一幅を所蔵している。上部に慈眼大師の讃があり、「三国伝燈大僧正天海書」と記されている。毎年2月15日にこれを拝観させている。 薬王山善養寺 延寿院と号し、同所坂本一丁目の左側にあり、天台宗で本尊は薬師如来を安置している。《寺僧が言うには、この本尊は小野照崎明神の本地仏であり、このために小野照崎明神の社は遥かにこの地を離れているけれども、当寺薬師堂に相対しているのだという》当寺は天長年中に慈覚大師が草創し、本尊も同じ大師の作であると言われている。額に「円満」の二字を刻んでおり、黄檗木庵老人の筆である。また境内に閻魔堂があり、閻魔王の像は運慶の作である。正月と7月16日には参詣者が群集する。《ある人が言うには、当寺の閻魔王の像は野州足利学校にあった聖像であったが、事情があって後世にここに移したのだという》 小野照崎明神社 同所三丁目の右側にあり、祭神は小野篁の霊であると言われている。社伝はあるものの詳らかでないため、しばらくここでは省略する。当社は坂

英語訳

【Right Page】 Iriya  Kōshin Hall   Enshrined at Kihōin Temple   A sacred statue by the same artist   as the blue-faced Vajra (Shōmen Kongō)   at Shitennōji Temple in Settsu Province     It is said      to be 【Left Page】 Konkōzan Yōgyokuin Temple Located south of Shitaya Sakamoto 1-chōme, this is a Tendai sect temple that was formerly located near the Ōte gate area of the current Edo Castle grounds, but was relocated to its present site around the Keichō era. In ancient times it was called Sanmyakuin, but during the Hōei era it was renamed to its current name. This temple houses a hanging scroll painting of the reclining Buddha (Shakyamuni's nirvana). Above it is an inscription by Jigen Daishi, marked as "written by Sankoku Dentō Dai-sōjō Tenkai." Every year on February 15th, this is displayed for public viewing. Yakuōzan Zenyōji Temple Also called Enjuin, located on the left side of Sakamoto 1-chōme in the same area. This Tendai sect temple enshrines Yakushi Nyorai as its main deity. 《According to the temple monks, this main deity is the honji-butsu (original Buddhist form) of Ono Terusaki Myōjin, and for this reason, although the Ono Terusaki Myōjin shrine is located far from this place, it faces toward this temple's Yakushi Hall》The temple was founded by Jikaku Daishi during the Tenchō era, and the main statue is also said to be his work. The characters "Enman" (perfection) are carved on a plaque, written by Ōbaku Mokuan Rōjin. There is also an Emma Hall within the temple grounds, and the statue of Emma-ō (King of Hell) is by Unkei. On New Year's Day and July 16th, worshippers gather in crowds. 《Someone says that this temple's Emma-ō statue was originally a sacred image at Ashikaga School in Yashū Province, but was moved here in later times due to certain circumstances》 Ono Terusaki Myōjin Shrine Located on the right side of 3-chōme in the same area, the enshrined deity is said to be the spirit of Ono no Takamura. Although there are shrine records, they are not clear, so we will omit them here for now. This shrine is on a slope