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コレクション: 小倉百人一首

頭書和歌注譯/壽賀多百人一首小倉錦 - 翻刻

頭書和歌注譯/壽賀多百人一首小倉錦 - ページ 25

ページ: 25

翻刻

【右頁中】   中納言朝忠(ちうなごんあさたゞ)  逢(あ)ふ事(こと)の 絶(たゑ)てし なくは なか〳〵に 人(ひと)をも 身(み)をも うらみざらまし 【右頁上】 此哥の心はあふといふことの世(よ) の中(なか)にたへてなきものならば なか〳〵によからんしからば人を 恨(うらめ)しく思ふこともなく身を うらむることもなからんあひ見 ると云(いふ)ことのあるゆへにてこそもの をも思へとあらぬるに心をよ せておもひあまりたるつら さをいひ出せり是(これ)はあふて あはざるこひの心にてよめり 心をつくしきてのこと也世の 中にたへてさくらのなかりせは 人の心はといひたると同意(とうい)也 なか〳〵といふを只(たゞ)はいらぬ也 〇 季吟(きゞん)曰(いはく)【別刷は「いはく」のルビなし】一義はつかにもあは ましき本位(ほんい)なるをかくかれ〳〵 になる思ひの切(せつ)なればなか〳〵始(はじめ)に あふことのたへてなくば【別刷は濁点なし】恨(うらみ)もあらじと也 【左頁中】  謙徳公(けんとくこう) 哀(あは)れとも いふべき 人(ひと)は おもほえで 身(み)のいたづらに なりぬべきかな 【左頁上】 此哥の心はあはれともいふべ き人はうつゝなくかはりはて ぬればいふにたらすわきにも 人の知りてあはれむものゝある べきともおもほへず只(たゞ)わが身(み) のみいたづらになりはつべき きてはくちをしき身のはて かなとよめる哥也 詞書(ことばがき)に ものいひける女の後(のち)につれ なくなり侍(はべ)りてさらにあは ず侍りければとあり此いふ べき人はおもほえでとは たがいの他(た)人をさしていへり わが思ふあひてをばいかに たらざる事なるべしまた 曰おもほえでは覚(おぼへ)ずし て也身のいたづらにはわがみ むなしく死(し)をいふ也

現代語訳

【右頁中】 中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ) 逢うことの 絶えて なくば なかなかに 人をも 身をも 恨みざらまし 【右頁上】 この歌の心は、逢うということが世の中に全くないものならば、なかなかによいだろう。そうであれば人を恨めしく思うこともなく、身を恨むこともないだろう。逢い見るということがあるからこそ物思いもするのに、そうでないのに心を寄せて思い余った辛さを詠み出した。これは逢って別れる恋の心で詠んだものである。心を尽くしきっての歌である。「世の中に全く桜がなかりせば人の心は」と詠んだのと同じ意味である。「なかなかに」という語に「ただ」は不要である。○季吟が言うには、一つの解釈は、僅かにでも逢えそうな可能性があるのに、このようにそれぞれ離ればなれになる思いが切ないので、なかなか初めに逢うことが全くなければ恨みもないだろう、ということである。 【左頁中】 謙徳公(けんとくこう) 哀れとも 言うべき 人は 思えで 身の徒らに なりぬべきかな 【左頁上】 この歌の心は、哀れとも言ってくれそうな人は、現実味もなく変わり果ててしまったので言うに足らず、また他に人が知って哀れんでくれる者があるとも思えず、ただ我が身のみが徒らに終わってしまうだろう、なんとも口惜しい身の末だなあ、と詠んだ歌である。詞書に「物を言い交わしていた女がその後につれなくなり、全く逢わなくなった」とある。この「言うべき人は思えで」とは、お互いの他人を指して言っている。私が思う相手はいかに頼りにならないことだろうか。また、「思えで」は「覚えずして」ということである。「身の徒らに」は我が身が空しく死ぬことを言っている。