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翻刻
【右丁 白紙】
【左丁】
日 光 山 志 巻 之 五
植 田 孟 縉 編 輯
御鎮座之記(おんちんざのき) 《割書:烏丸大納言藤原光廣卿》
抑(そも〳〵)元和三の年 尊躰(そんたい)を日光山(につくわうざん)へうつし奉(たてまつ)らるゝ事は大織冠(たいしよくくわん)を
摂津國(つのくに)阿威山(あゐやま)より多武峰(たふのみね)に定惠和尚(ぢやうゑをしやう)のわたし申(まう)されけるためし
なりこれ御(おん)ぞうのいやつぎにおはします故(ゆゑ)なるべし天(あま)てる御神(おほんがみ)
も後(のち)にぞ倭姫命(やまとびめのみこと)五十鈴(いすゞ)の川上(かはかみ)には鎮座(ちんざ)有(あり)ける男山(をとこやま)の御(おほん)をば行(ぎやう)
敎(けう)宇佐宮(うさのみや)よりかの和尚(をしやう)の三の衣(ころも)にやどらせ給(たま)ふ此(この)たびはことの
やう御現存(おんげんぞん)の时(とき)よりくはしく大僧正(だいそうじやう)天海(てんかい)に御神約(おんしんやく)ありてかく
まのあたり道(みち)びかれおはしますをばさぞうれしとや見そなは
すらんいにしへ今(いま)さることわり逰めたがふまじくなんしかはあれ
現代語訳
【右丁 白紙】
【左丁】
日光山志 巻之五
植田孟縉 編輯
御鎮座の記(烏丸大納言藤原光廣卿)
そもそも元和三年に、尊体を日光山へお移し申し上げることは、大織冠を
摂津国阿威山より多武峰に定恵和尚がお移し申されたためしに
なぞらえたものである。これは御霊がその血筋を継いでいらっしゃるゆえであろう。天照
大御神も後に倭姫命によって五十鈴川上に鎮座されたのである。男山の御神を行
教が宇佐宮よりかの和尚の三衣に宿らせ給うた。この度は事の
様子が御現存の時よりくわしく大僧正天海に御神約があって、かく
間近に道案内されていらっしゃることを、さぞ嬉しいとご覧になる
であろう。昔も今もそのことわりは変わることがないのである。
英語訳
【Right Page - Blank】
【Left Page】
Records of Nikko Mountain, Volume Five
Compiled by Ueda Mōshin
Record of the Sacred Enshrinement (by Minister Karasumaru Fujiwara no Mitsuhiro)
In the third year of Genna (1617), the sacred body was transferred to Mount Nikko, following the precedent when the Great Crown (Fujiwara no Kamatari) was moved from Mount Ai in Settsu Province to Tōnomine by the monk Jōe.
This was done because the sacred spirit continues the same lineage. Even Amaterasu Ōmikami was later enshrined at Isuzu River by Yamato-hime no Mikoto. The deity of Otokoyama was made to dwell in the three robes of that monk by Gyōkyō from Usa Shrine. On this occasion, the circumstances were more detailed than during his lifetime, and through a divine covenant with Great Monk Tenkei, he is guided so closely before us, which must surely be viewed with great joy. This principle remains unchanged from ancient times to the present.