東京学芸大学「学びと遊びの歴史」を翻刻!

コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 1

日光山志 - 翻刻

日光山志 - ページ 219

ページ: 219

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【右丁】  どおよそ人(びと)は此所(このところ)をさへはなれおはしますをいかでしたひ奉(たてまつ)  らざらむもことわりなり僧正(そうじやう)も水(みづ)がきの久(ひさ)しくなれむつび給ふ  御名残(おんなごり)つかのまおぼし忘(わす)れず二月(きさらぎ)の佛(ほとけ)の御(おん)わかれとてもさか  しき尊者(そんじや)かなしまずやはこれまたまことの道(みち)にたがふべきにも  あらずさて神躰(しんたい)は金輿(きんよ)に奉(たてまつ)る大僧正(だいそうじやう)は御(おん)さきにぞおはす次(つぎ)に  山門(さんもん)の碩学(せきがく)東関(とうくわん)の学者(がくしや)ありけるかぎりまゐりあつまる巍(ぎ)〻(ゝ)蜀(しよく)  錦(きん)をつゞり呉綾(ごりよう)をきるめをかゞやかし耳(みゝ)をおどろかさずといふ  事なし  御所(ごしよ)の御名代(おんみやうだい)には土井大炊頭利勝(どゐおほゐのかみとしかつ)松平右衛門佐正久(まつだひらゑもんのすけまさひさ)  板倉内膳正重昌(いたくらないぜんのしやうしげまさ)秋元但馬守泰朝(あきもとたぢまのかみやすとも)等(とう)也(なり)騎馬(きば)の行粧(ぎやうさう)唐鞍(からくら)うつし馬副(うまぞひ)  布衣(ふい)のさふらひ雜色(ざつしき)ざまにいたるまでおの〳〵きらをつくさせ  たり御旅所(おんたびしよ)はこなたかなたあたらしくつくりいとなまれしもあり  道(みち)は江尻(えじり)より清見(きよみ)をとほらせ給(たま)ふにむかひに三保(みほ)の松原(まつばら)あを 【左丁】  やかに見わたされてゆく〳〵と久能(くのう)はへだゝりぬれば霞(かすみ)ぞ春(はる)はと  涙(なみだ)はとゞまらねど神輿(しんよ)は折(をり)〻(〳〵)とゞまる浪(なみ)の関守(せきもり)せきもとゞむるか  松原(まつばら)のまつとかおもふ興津川(おきつがは)のおほうなばらにながれ入(いる)を見  ては四河入海(しかにふかい)同一鹹味(どういちかんみ)とも自然流入(じねんるにふ)薩婆若海(さつばにやくかい)と觀(くわん)じたまふ田子(たごの)  浦(うら)に打出(うちいづ)れば濵(はま)づたひに塩(しほ)焼(やく)烟(けふり)一(ひと)むすびして雲(くも)とやなり霞(かすみ)とや  なびくらん風(かぜ)はなぎわたりて舟(ふね)ども浪(なみ)にうかべりかゝる折(をり)にも  かけぬ日(ひ)はなしとおもほす今日(けふ)の御とまりは富士山(ふじさん)の麓(ふもと)善徳(ぜんとく)  寺(じ)なり初(はじめ)にちる桜(さくら)あれば咲(さく)もあり是(これ)すなはち常住(じやうぢゆう)の理(ことわり)なるぞや  先(まづ)そやの御法事(おんほふじ)みやうがうのかゝ気ふたきまでくゆりみちて花(はな)は  つくまにぞちりまがふ梵音(ぼんおん)は迦陵頻伽(かりようびんが)の聲(こゑ)はづかしくむつの  輪(りん)のひゞきは六道(ろくだう)の衆生(しゆじやう)もげに苦(くるしみ)をまぬかれぬべくぞきこゆる  大衆(だいしゆ)の囬向(ゑかう)ありがたく涙(なみだ)もせきあへぬぞかし御 布施(ふせ)しな〴〵ひき

現代語訳

【右丁】  そもそも人は、この所(江戸)をさえ離れていらっしゃることを、どうして慕い申し上げないでいられようか。それも道理である。僧正(天海)も水垣の久しい馴れ親しみを給う  御名残を、つかの間も忘れることなく思い出される。二月の仏との御別れといっても、賢き  尊者が悲しまないはずがない。これもまた真の道に背くものでも  ない。さて神体は金輿にお納め申し上げる。大僧正は御先にいらっしゃる。次に  山門の碩学、東関の学者がいる限り参り集まる。巍々たる蜀  錦を綴り、呉綾を着る。目を輝かし耳を驚かさないということは  ない。  御所の御名代には土井大炊頭利勝、松平右衛門佐正久、  板倉内膳正重昌、秋元但馬守泰朝等である。騎馬の行装、唐鞍を写し、馬副、  布衣の侍、雑色の様に至るまで、おのおの綺羅を尽くさせ  た。御旅所はあちらこちらに新しく作り営まれたものもある。  道は江尻より清見をお通りになるに、向かいに三保の松原が青 【左丁】  やかに見渡されて、行く行くと久能は隔たってしまえば、「霞ぞ春は」と  涙は止まらないが、神輿は折々に止まる。浪の関守が関も止めるのか、  松原の「松」と思う。興津川の大海原に流れ入るのを見  ては、四河入海同一鹹味とも、自然流入薩婆若海とも観じなさる。田子  浦に打ち出でれば、浜伝いに塩焼く煙が一筋立ちのぼって、雲となるのか霞と  なびくのであろうか。風は凪ぎ渡って、舟どもが浪に浮かんでいる。かかる折にも  欠けぬ日はないと思われる。今日の御泊まりは富士山の麓、善徳  寺である。初めに散る桜があれば咲くものもある。これすなわち常住の理であるぞ。  まずそのような御法事、妙香のかかる気二つまでくゆり満ちて、花は  尽きるまに散り交う。梵音は迦陵頻伽の声も恥ずかしく、六つの  鈴の響きは六道の衆生も、げに苦しみを免れるであろうと聞こえる。  大衆の回向ありがたく、涙も堰き合えないのである。御布施品々引き