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【右丁】
どおよそ人(びと)は此所(このところ)をさへはなれおはしますをいかでしたひ奉(たてまつ)
らざらむもことわりなり僧正(そうじやう)も水(みづ)がきの久(ひさ)しくなれむつび給ふ
御名残(おんなごり)つかのまおぼし忘(わす)れず二月(きさらぎ)の佛(ほとけ)の御(おん)わかれとてもさか
しき尊者(そんじや)かなしまずやはこれまたまことの道(みち)にたがふべきにも
あらずさて神躰(しんたい)は金輿(きんよ)に奉(たてまつ)る大僧正(だいそうじやう)は御(おん)さきにぞおはす次(つぎ)に
山門(さんもん)の碩学(せきがく)東関(とうくわん)の学者(がくしや)ありけるかぎりまゐりあつまる巍(ぎ)〻(ゝ)蜀(しよく)
錦(きん)をつゞり呉綾(ごりよう)をきるめをかゞやかし耳(みゝ)をおどろかさずといふ
事なし 御所(ごしよ)の御名代(おんみやうだい)には土井大炊頭利勝(どゐおほゐのかみとしかつ)松平右衛門佐正久(まつだひらゑもんのすけまさひさ)
板倉内膳正重昌(いたくらないぜんのしやうしげまさ)秋元但馬守泰朝(あきもとたぢまのかみやすとも)等(とう)也(なり)騎馬(きば)の行粧(ぎやうさう)唐鞍(からくら)うつし馬副(うまぞひ)
布衣(ふい)のさふらひ雜色(ざつしき)ざまにいたるまでおの〳〵きらをつくさせ
たり御旅所(おんたびしよ)はこなたかなたあたらしくつくりいとなまれしもあり
道(みち)は江尻(えじり)より清見(きよみ)をとほらせ給(たま)ふにむかひに三保(みほ)の松原(まつばら)あを
【左丁】
やかに見わたされてゆく〳〵と久能(くのう)はへだゝりぬれば霞(かすみ)ぞ春(はる)はと
涙(なみだ)はとゞまらねど神輿(しんよ)は折(をり)〻(〳〵)とゞまる浪(なみ)の関守(せきもり)せきもとゞむるか
松原(まつばら)のまつとかおもふ興津川(おきつがは)のおほうなばらにながれ入(いる)を見
ては四河入海(しかにふかい)同一鹹味(どういちかんみ)とも自然流入(じねんるにふ)薩婆若海(さつばにやくかい)と觀(くわん)じたまふ田子(たごの)
浦(うら)に打出(うちいづ)れば濵(はま)づたひに塩(しほ)焼(やく)烟(けふり)一(ひと)むすびして雲(くも)とやなり霞(かすみ)とや
なびくらん風(かぜ)はなぎわたりて舟(ふね)ども浪(なみ)にうかべりかゝる折(をり)にも
かけぬ日(ひ)はなしとおもほす今日(けふ)の御とまりは富士山(ふじさん)の麓(ふもと)善徳(ぜんとく)
寺(じ)なり初(はじめ)にちる桜(さくら)あれば咲(さく)もあり是(これ)すなはち常住(じやうぢゆう)の理(ことわり)なるぞや
先(まづ)そやの御法事(おんほふじ)みやうがうのかゝ気ふたきまでくゆりみちて花(はな)は
つくまにぞちりまがふ梵音(ぼんおん)は迦陵頻伽(かりようびんが)の聲(こゑ)はづかしくむつの
輪(りん)のひゞきは六道(ろくだう)の衆生(しゆじやう)もげに苦(くるしみ)をまぬかれぬべくぞきこゆる
大衆(だいしゆ)の囬向(ゑかう)ありがたく涙(なみだ)もせきあへぬぞかし御 布施(ふせ)しな〴〵ひき
現代語訳
【右丁】
そもそも人は、この所(江戸)をさえ離れていらっしゃることを、どうして慕い申し上げないでいられようか。それも道理である。僧正(天海)も水垣の久しい馴れ親しみを給う
御名残を、つかの間も忘れることなく思い出される。二月の仏との御別れといっても、賢き
尊者が悲しまないはずがない。これもまた真の道に背くものでも
ない。さて神体は金輿にお納め申し上げる。大僧正は御先にいらっしゃる。次に
山門の碩学、東関の学者がいる限り参り集まる。巍々たる蜀
錦を綴り、呉綾を着る。目を輝かし耳を驚かさないということは
ない。 御所の御名代には土井大炊頭利勝、松平右衛門佐正久、
板倉内膳正重昌、秋元但馬守泰朝等である。騎馬の行装、唐鞍を写し、馬副、
布衣の侍、雑色の様に至るまで、おのおの綺羅を尽くさせ
た。御旅所はあちらこちらに新しく作り営まれたものもある。
道は江尻より清見をお通りになるに、向かいに三保の松原が青
【左丁】
やかに見渡されて、行く行くと久能は隔たってしまえば、「霞ぞ春は」と
涙は止まらないが、神輿は折々に止まる。浪の関守が関も止めるのか、
松原の「松」と思う。興津川の大海原に流れ入るのを見
ては、四河入海同一鹹味とも、自然流入薩婆若海とも観じなさる。田子
浦に打ち出でれば、浜伝いに塩焼く煙が一筋立ちのぼって、雲となるのか霞と
なびくのであろうか。風は凪ぎ渡って、舟どもが浪に浮かんでいる。かかる折にも
欠けぬ日はないと思われる。今日の御泊まりは富士山の麓、善徳
寺である。初めに散る桜があれば咲くものもある。これすなわち常住の理であるぞ。
まずそのような御法事、妙香のかかる気二つまでくゆり満ちて、花は
尽きるまに散り交う。梵音は迦陵頻伽の声も恥ずかしく、六つの
鈴の響きは六道の衆生も、げに苦しみを免れるであろうと聞こえる。
大衆の回向ありがたく、涙も堰き合えないのである。御布施品々引き