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【右丁】
御留守権別當(おんるすごんべつたう)と称(しよう)せしといへり其(その)いはれは座主(ざす)光明院(くわうみやうゐん)は鎌倉(かまくら)に在(ざい)
住(ぢゆう)せられけるゆゑ座禅院(ざぜんゐん)をして御留守権別當(おんるすごんべつたう)にて一山(いつさん)の法務(ほふむ)
を執(しつ)せしが應永廿七年 座主(ざす)大僧正(だいそうじやう)慈玄(じげん)寺務(じむ)を退轉(たいてん)して光明院(くわうみやうゐん)
の座主職(ざすしよく)断絶(だんぜつ)せし後(のち)は坐禅院(ざぜんゐん)昌瑜(しやうゆ)権別當(ごんべつたう)に任(にん)じ當山(たうざん)の政務(せいむ)を
司(つかさどり)しかばおのづから座主職(ざすしよく)のやうにも思(おも)はれしとぞ然(しか)るに應永
廿七年より慶長十八年 迄(まで)凡(およそ)百九十四年の間(あひだ)法務(ほふむ)を司(つかさど)りしが慶長
十八年 座禅院(ざぜんゐん)昌尊(しやうそん)代(よ)に一山(いつさん)と異儀(いぎ)に及(および)しこと有(あり)て昌尊(しやうそん)退院(たいゐん)せ
り此(この)砌(みぎり)駿(すん) 城(じやう)へ南光坊(なんくわうばう)天海師(てんかいし)を召(めさ)せられ日光山(につくわうざん)拜領(はいりやう)せられ同年
登山(とうざん)し玉(たま)ひけれども光明院(くわうみやうゐん)の本坊(ほんばう)は破壊(はゑ)せしゆゑ坐禅院(ざぜんゐん)をして
宿坊(しゆくばう)とし給(たま)ひ是(これ)より《振り仮名:追〻|おひ〳〵》當山(たうざん)悉(こと〴〵く)中興(ちゆうこう)し玉(たま)ふといふ此(この)餘(よ)は光明院(くわうみやうゐん)
《振り仮名:𦾔跡|きうせき》の條(でう)に記(しる)せり
文明年中 聖護院宮准后道興法親王(しやうごゐんのみやじゆごうだうこうほふしんわう)登山(とうざん)せられ座禅院(ざぜんゐん)へ滞畄(たいりう)あり
【左丁】
き是(これ)より以前(いぜん)享禄三年十二月 鎌倉(かまくら)御所(ごしよ)成氏朝臣(なりうぢあそん)の御舎㐧(ごしやてい)なる
勝長壽院殿(しようちやうじゆゐんどの)敵方(てきかた)より謀(はか)りけるが竊(ひそか)に鎌倉(かまくら)を出(いで)させ玉(たま)ひて日光(につくわう)
山(ざん)へ御移(おんうつ)り有(あり)て敵(てき)と一味(いちみ)にて衆徒(しゆと)等(ら)を催(もよほ)さるといふこと大草紙(おほざうし)に
見(み)えたり又(また)結城戦塲物語(ゆふきせんじやうものがたりに)云(いはく)永亨十年七月 鎌倉(かまくら)にて持氏朝臣(もちうぢあそん)御腹(おんはら)
めされけるゆゑ二 男(なん)三 男(なん)春王殿(しゆんわうどの)安王殿(あんわうどの)とて二人 迄(まで)いますを乳(めの)
母(と)の女房(にようばう)かしこく抱(いだ)き取(とり)てまぎれ出(いで)下野國(しもつけのくに)日光山(につくわうざん)へ落行(おちゆき)衆徒(しゆと)
を頼(たの)み申(まうし)てふかく忍(しのば)せ申(まうし)しを結城(ゆふき)七郎 氏朝(うぢとも)此(この)由(よし)を傳(つた)へ聞(きゝ)て申(まうし)
けるは抑(そも〳〵)我(われ)等(ら)が先祖(せんぞ)より右大将家(うだいしやうけ)に仕(つか)へ其後(そのゝち)も尊氏(たかうぢ)より此(この)かた
東國源氏(とうごくげんじ)に従(したが)ひけり一旦(いつたん)頼(たの)み奉(たてまつ)る主君(しゆくん)なれば某(それがし)養育(やういく)申(まう)さんとて
竊(ひそか)に結城(ゆふき)が城(しろ)へ日光山(につくわうざん)より迎(むか)へ奉(たてまつ)ると《割書:云| 〻》
《振り仮名:光明院𦾔迹|くわうみやうゐんきうせき》 今(いま) 御假殿(おんかりでん)の邊(へん)より鐘撞寮(かねつきれう)の南の方(かた)なる明地(あきち)邊(へん)迄(まで)
上世(じやうせい)より當山(たうざん)座主職(ざすしよく)光明院(くわうみやうゐん)の境地(けいち)なる由(よし)抑(そも〳〵)當山(たうざん)開闢(かいびやく)の事(こと)は勝道(しようだう)
現代語訳
【右丁】
御留守権別当と称したといわれる。その理由は座主光明院が鎌倉に在住していたため、座禅院をして御留守権別当として一山の法務を執行させていた。応永二十七年(1420年)、座主大僧正慈玄が寺務を退転して光明院の座主職が断絶した後は、座禅院昌瑜が権別当に任じられ当山の政務を司ったため、自然と座主職のようにも思われたという。しかるに応永二十七年から慶長十八年(1613年)まで、およそ百九十四年間法務を司ったが、慶長十八年座禅院昌尊の代に一山と異議に及ぶことがあって昌尊は退院した。この折、駿府城へ南光坊天海師を召され、日光山を拝領され、同年登山されたものの、光明院の本坊は破壊していたため、座禅院を宿坊とされ、これより次第に当山をことごとく中興されたという。この余は光明院旧跡の条に記してある。
文明年中(1469-1487年)、聖護院宮准后道興法親王が登山され、座禅院へ滞留された。
【左丁】
これより以前、享禄三年(1530年)十二月、鎌倉御所成氏朝臣の御舎弟である勝長寿院殿を敵方より謀ったが、密かに鎌倉を出されて日光山へ御移りがあって、敵と一味して衆徒等を催されるということが大草紙に見えている。また結城戦場物語に云うには、永享十年(1438年)七月、鎌倉にて持氏朝臣が御腹を召されたため、二男三男春王殿安王殿という二人までいらっしゃるのを乳母の女房が賢く抱き取ってまぎれ出て、下野国日光山へ落ち行き、衆徒を頼み申して深く忍ばせ申したのを、結城七郎氏朝がこの由を伝え聞いて申したのは「そもそも我等が先祖より右大将家に仕え、その後も尊氏よりこの方、東国源氏に従ってきた。一旦頼み奉る主君なれば、それがし養育申そう」として、密かに結城が城へ日光山より迎え奉ったという。
光明院旧跡 今の御仮殿の辺りから鐘撞寮の南の方にある明地辺りまで、上世より当山座主職光明院の境地である由。そもそも当山開闢の事は勝道
英語訳
【Right page】
It was called "Onrusu Gonbetto" (Acting Deputy Administrator). The reason was that since the head priest (zasu) of Komyoin resided in Kamakura, Zazenin served as the acting deputy administrator to carry out the religious affairs of the entire mountain. In Oei 27 (1420), after the head priest Dai-Sojo Jigen resigned from temple affairs and the position of head priest of Komyoin was discontinued, Zazenin Shoyu was appointed as deputy administrator and governed the political affairs of the mountain, so it naturally came to be regarded as similar to the head priest position. From Oei 27 to Keicho 18 (1613), for approximately 194 years, he administered religious affairs, but in Keicho 18, during the time of Zazenin Shoson, there was a dispute with the mountain community, and Shoson retired. At this time, Master Tenkai of Nankōbō was summoned to Sunpu Castle and granted Nikko Mountain, ascending the mountain in the same year. However, since the main hall of Komyoin had been destroyed, Zazenin was used as lodging, and from this time gradually the entire mountain was restored. The remainder is recorded in the section on the old site of Komyoin.
During the Bunmei era (1469-1487), Imperial Prince Dōkō, quasi-empress of Shōgoin-no-miya, ascended the mountain and stayed at Zazenin.
【Left page】
Before this, in Kyōroku 3 (1530), December, there was a plot against Shōchōjuin-dono, the younger brother of Lord Nariuji of Kamakura Palace, but he secretly left Kamakura and moved to Nikko Mountain, where he allied with enemies and rallied the monk-soldiers, as recorded in the Ōzōshi. Also, according to the Tale of Yuki Battlefield, in Eikyō 10 (1438), July, when Lord Mochituji committed seppuku in Kamakura, his second and third sons, Prince Shunō and Prince Anō, were cleverly taken and spirited away by their wet nurse, who fled to Nikko Mountain in Shimotsuke Province and entrusted them deeply to the monk-soldiers. When Yuki Shichirō Ujitomo heard of this, he said: "Our ancestors have served the Right General's house, and since then, from Takauji onward, we have followed the Eastern Genji. Since they are masters we have pledged to serve, I shall raise them myself," and secretly welcomed them from Nikko Mountain to Yuki Castle.
Old Site of Komyoin - From the area around the current temporary shrine to the open land to the south of the bell-ringer's quarters was the territory of Komyoin, which held the head priest position of this mountain since ancient times. The founding of this mountain by Shōdō...