東京学芸大学「学びと遊びの歴史」を翻刻!

コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之20 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之20 - ページ 4

ページ: 4

翻刻

【右頁】 夕顔(ゆふかほ)観音堂(くわんおんたう) 新宿(にゐしゆく)の渡口(わたしくち)より半道(はんみち)はかり西北(にしきた)の方(かた)中川(なかかは)の堤(つゝみ)  に傍(そひ)て飯塚村(いひつかむら)といふにあり本尊(ほんそん)聖観世音(しやうくわんせおん)は金像(こんさう)にして  御丈(おんたけ)五寸 計(はかり)ありと云(いふ)されとも深(ふか)く内龕(ないかん)に秘(ひ)して拝(はい)する事  をゆるさす別(へつ)に慈覚大師(しかくたいし)手刻(しゆこく)の観音(くわんおん)の木像(もくさう)を以(もつ)て龕前(かんせん)に  安(あん)す相伝(あひつた)ふ此地(このち)は昔(むかし)荘官(しやうくわん)関口氏(せきくちうち)某(それかし)か采地(さいち)なり《割書:江戸(えと)砂子(すなこ)に此地(このち)は|村岡(むらをか)五郎(こらう)平(たひらの)良文(よしふん)か》  《割書:墳墓(ふんほ)の旧址(きうし)なりと|あれとも拠(よりところ)なし》往古(そのかみ)関口氏(せきくちうち)此地(このち)に就(より)て熊野(くまの)権現(こんけん)及(およ)ひ水神(すゐしん)  等(とう)の社(やしろ)を創(さう)す《割書:此(この)叢祠(さうし)|今猶(いまなほ)存(そん)す》其(その)社前(しやせん)に老松(らうしよう)と榎樹(えのき)の二樹(しゆ)の雙立(さうりふ)する  あり春夏(はるなつ)は枝葉(しえふ)憔悴(せうすゐ)秋冬(あきふゆ)は翠色(すゐしよく)を増(ま)す人 以(もつ)て奇(き)なりとす  又 此(この)樹(しゆ)間(かん)時(とき)として光(ひかり)を発(はつ)し或(あるひ)は龍燈(りうとう)の梢(こすゑ)にかゝるをみるといふ  寛文(くわんふん)八年戊申 関口氏(せきくちうち)此地(このち)の医生(いせい)深谷氏(ふかやうち)と共(とも)に相謀(あいはか)りて此(この)  樹下(しゆか)を堀(ほり)しに一二の仏具(ふつく)を得(え)たり《割書:深谷氏(ふかやうち)は紀州(きしう)の産(さん)にして喜(き)兵衛と云|其頃(そのころ)齢(よはひ)七 旬(しゆん)媼(をうな)あり年(とし)相似(あひに)たり神(しん)》  《割書:祠(し)の傍(かたはら)に住(ちゆう)す翁媼(おきなをうな)素(もと)より信心(しん〳〵)にして日蓮(にちれん)の|弘法(くほふ)に帰(き)し常(つね)に妙(めう)経(きやう)唱題(しやうたい)懈怠(けたい)ある事なし》是(これ)必(かならす)古時(むかし)此地(このち)に有名(いうめい)の寺院(しゐん)  ありしならんと云(いひ)て竟(つひ)に同年六月六日 謹(つゝしん)て猶(なほ)此(この)土中(とちやう)を堀(ほり)しに                             七ノ百三十二 【左頁】  金像(こんさう)の大非(たいひ)の像(さう)一躯(いつく)を獲(え)たり《割書:仏像(ふつさう)背面(はいめん)に弘長(こうちやう)二年二月|造(つくる)といへる七 字(し)を刻(こく)せり》仍(よつて)直(すく)に  深谷氏(ふかやうち)の家(いへ)に移(うつ)し假(かり)に仏壇(ふつたん)に安(あん)す相好(さうかう)端厳(たんこん)実(しつ)に凡工(ほんこう)の  所造(しよさう)に出(いて)たる所(ところ)あり然(しかる)に其(その)前宵(せんせう)深谷氏(ふかやうち)老翁(おきな)媼(をうな)共(とも)に夢(ゆめ)の  応(さとし)あるを以(もつ)てます〳〵奇(き)なりとして竟(つひ)に此地(このち)を闢(ひらき)て草堂(さうたう)を  営(いとな)み此(この)霊像(れいさう)を迁(うつ)し奉(たてまつ)りけるとそ   按(あんする)に世(よ)に夕顔(ゆふかほ)観音(くわんおん)の像(さう)は瓠瓜(こくわ)の中(うち)より出現(しゆつけん)し給ふ故(ゆゑ)に此(この)称(しよう)ありとも云 或(あるひは)云   紫(むらさき)式部(しきふ)の念持仏(ねんちふつ)なりともいひ伝(つた)へり此地(このち)の縁起(えんき)に載(のす)る所(ところ)と異(こと)也 何(なに)の故(ゆゑ)に   夕顔(ゆふかほ)の称(しよう)あるにや其(その)よる所(ところ)をしらす 猿俣(さるかまた) 新宿(にゐしゆく)より北(きた)の方(かた)の邑名(いうめう)なり  神 鳳 抄 曰   下 総 国   葛 西    猿 俣 御 厨   百 八 十 丁 新 御 厨 在 之 云 云  北条家(ほふてうけ)永禄(えいろく)二年 所領(しよりやう)役帳(やくちやう)に窪寺(くほてら)大蔵丞(おほくらのしやう)といふ人 葛西(かさい)猿俣(さるかまた)四十九 貫文(くわんもん)の地(ち)を  領(りやう)すとあり葛西(かさい)今(いま)武蔵国(むさしのくに)に属(そく)すといへとも古(いにしへ)は下総国(しもふさのくに)なり古書(こしよ)に出(いつ)る所(ところ)みなかくの如し 和同寺(わとうし)廃址(はいし)同所(とうしよ)にあり仏生山(ふつしやうさん)と号(かう)したる真言(しんこん)の古藍(こらん)にして  和銅(わどう)年間(ねんかん)の草創(さう〳〵)なりしと云伝(いひつた)ふ中古(ちゆこ)迄(まて)も伽藍(からん)巍々(きゝ)たりしに  天文(てんふん)六年 国府台合戦(こふのたいかつせん)の時(とき)兵火(ひやうくわ)の為(ため)に灰燼(くわいしん)となりて

現代語訳

【右頁】 夕顔観音堂は、新宿の渡し場から半里ほど西北の方向、中川の堤に沿った飯塚村というところにある。本尊の聖観世音は金の像で、お身丈は五寸ほどあるというが、深く内陣に秘蔵されて拝むことは許されない。別に慈覚大師手彫りの観音の木像を内陣の前に安置している。 言い伝えによると、この地は昔、荘官の関口氏某の領地であった。《江戸砂子にはこの地は村岡五郎平良文の墳墓の旧跡だとあるが、根拠がない》昔、関口氏がこの地に熊野権現および水神などの社を創建した。《この小さな神社は今もなお存在している》その社前に老松と榎の二本の木が並んで立っている。春夏は枝葉が衰え、秋冬は緑色を増すのを人々は不思議なこととしている。また、この木の間から時として光を発し、あるいは龍燈が梢にかかるのを見るという。 寛文八年戊申、関口氏がこの地の医師深谷氏と共に相談してこの木の下を掘ったところ、一、二の仏具を得た。《深谷氏は紀州の出身で喜兵衛といい、その頃七十歳くらいの老婆があった。神社の傍らに住み、翁と嫗はもともと信心深く、日蓮の弘法に帰依し、常に法華経を唱題して怠ることがなかった》これは必ず昔この地に有名な寺院があったのだろうと言って、ついに同年六月六日、謹んでなおもこの土中を掘ったところ、 【左頁】 金の大日如来の像一体を発見した。《仏像の背面に弘長二年二月造とある七文字が刻まれていた》そこで直ちに深谷氏の家に移し、仮に仏壇に安置した。相好端厳で、実に並の職人の作ったものを超えている。ところがその前夜、深谷氏の老翁と嫗が共に夢のお告げを受けたので、ますます不思議なこととして、ついにこの地を開いて草堂を営み、この霊像をお移し申し上げたのであった。 考えてみるに、世に夕顔観音の像は瓜の中から出現されたゆえにこの名があるともいい、あるいは紫式部の念持仏であるとも伝えられている。この地の縁起に記すところと異なる。なぜ夕顔の名があるのか、その由来は分からない。 猿俣は新宿より北の方の村名である。 神鳳抄に曰く、下総国葛西猿俣御厨、百八十町、新御厨これあり云々 北条家永禄二年所領役帳に、窪寺大蔵丞という人が葛西猿俣四十九貫文の地を領したとある。葛西は今は武蔵国に属するが、昔は下総国であった。古書に出るところは皆このようである。 和同寺廃址は同所にあり、仏生山と号した真言宗の古い寺院で、和銅年間の草創であったと伝えられる。中世まで伽藍は立派であったが、天文六年国府台合戦の時、兵火のために灰燼となって

英語訳

【Right Page】 Yugao Kannon Hall is located in a place called Iizuka Village, about half a ri northwest from the ferry crossing at Niijuku, along the embankment of the Nakagawa River. The principal image of Sho Kanzeon is a golden statue said to be about five sun in height, but it is deeply hidden in the inner sanctuary and worshippers are not permitted to view it. Separately, a wooden statue of Kannon carved by Jikaku Daishi is enshrined in front of the inner sanctuary. According to tradition, this land was formerly the territory of a certain Lord Sekiguchi, a manor official.《Edo Sunago states that this place was the old site of the tomb of Muraoka Goro Taira no Yoshifumi, but there is no evidence for this》In ancient times, Lord Sekiguchi established shrines to Kumano Gongen and water deities on this land.《These small shrines still exist today》In front of the shrine stand two trees side by side - an old pine and a zelkova. In spring and summer their branches and leaves wither, while in autumn and winter they increase in green color, which people consider mysterious. Also, it is said that light sometimes emanates from between these trees, or dragon lanterns can be seen hanging from their branches. In Kanbun 8 (1668), Lord Sekiguchi consulted with Dr. Fukaya, a local physician, and they dug beneath these trees, obtaining one or two Buddhist implements. 《Dr. Fukaya was from Kishu Province and was called Kihei. At that time there was an elderly woman of about seventy years. Living beside the shrine, both the old man and woman were naturally devout, having converted to Nichiren's teachings, constantly chanting the Lotus Sutra without negligence》Believing that there must have been a famous temple here in ancient times, they respectfully dug further into the earth on the sixth day of the sixth month of the same year. 【Left Page】 They discovered a golden statue of Dainichi Nyorai. 《Seven characters reading "Made in the second month of Kocho 2" were carved on the back of the statue》They immediately moved it to Dr. Fukaya's house and temporarily enshrined it in a Buddhist altar. The statue's features were dignified and truly surpassed the work of ordinary craftsmen. However, the night before, both Dr. Fukaya's elderly couple had received divine revelations in their dreams, making it all the more mysterious, so they finally opened up this land, built a grass hall, and respectfully transferred this sacred image there. Upon consideration, it is said that the statue of Yugao Kannon in the world appeared from inside a gourd, hence this name, or it is also transmitted that it was Murasaki Shikibu's personal devotional Buddha. This differs from what is recorded in this place's origin story. Why it has the name Yugao, its origin is unknown. Sarumata is a village name north of Niijuku. The Shinho-sho states: "Shimosa Province, Kasai Sarumata Imperial Manor, 180 cho, there is a new imperial manor, etc." In the Hojo family's land register of Eiroku 2, a person called Kubodera Okuranosho held land in Kasai Sarumata worth forty-nine kanmon. Though Kasai now belongs to Musashi Province, in ancient times it was Shimosa Province. All ancient texts record it thus. The ruins of Wado-ji Temple are in the same location. It was an ancient Shingon temple called Bussho-san, said to have been founded during the Wado era. The temple buildings were magnificent until medieval times, but during the Battle of Konodai in Tenbun 6, they were reduced to ashes by military fires.