翻刻
【右丁】
今(いま)しばらく時節(じせつ)を待(まつ)べしとて毎日(まいにち)海浜(はまべ)に出て魚(うを)をつる一(ある)
日(ひ)妻(つま)餉(ひるめし)を持(もち)行(ゆき)私(ひそか)に籃䉪(うをかご)を見るに魚(うを)一つもなし他人(たにん)は多(おゝく)
魚(うを)を釣得(つりゑ)たるにいかなれば籠(かご)の空(むなし)きぞとて其 釣竿(つりざほ)を取て
みれば鉤(つりばり)【鈎は俗字】を曲(まげ)ず直(すぐ)なる針(はり)にて餌(ゑば)もなし妻(つま)怒(いかり)て曰(いわく)今(いま)まては
御身(おんみ)賢才(けんさい)有といへども時(とき)に遇(あは)ざると思ひしが此 鉤(はり)を見て御 身(み)
の愚昧(おろか)なることをしれり早(はや)【里は誤】く離別(りべつ)して旧里(ふるさと)にかへり老期(らうご)を心
安(やす)くすべしと云 呂尚(りよしやう)の曰(いわく)我(われ)飢(うへ)て死(し)す共 心(こゝろ)を曲(まげ)て科(とが)なき物を取(とる)
事を好(この)まず直(すぐ)なる鉤(はり)にかゝるは天命(てんめい)の尽(つき)たる魚(うを)なれば取て生(なりわひ)
とすべし又 西北(にしきた)の方(かた)に当(あたつ)て奇瑞(きすい)なる雲(くも)あり三年の内必す
王侯(わうこう)来り我を迎(むかへ)給ふべし其時 汝(なんぢ)を栄花(ゑいぐわ)ならしめて今(いま)までの
困苦(くるしみ)を報(ほう)ずべしとてさま〴〵にさとすといへども妻(つま)真(しん)ぜず
先(さき)に御身(おんみ)八十に及(およ)ばゞ世(よ)に出(いづ)べしと云(いひ)たまへども今に富貴(ふうき)
来(きた)らず我(われ)すでに老(おひ)極(きわま)りたとへ死期(しご)に富貴(ふうき)になりたり
とも何(なに)の楽(たの)しむ事あらんと云 呂尚(りよしやう)の曰(いわく)時(とき)至(いた)らばかならず運(うん)
を開(ひら)くべし其時 汝(なんぢ)くやむべし妻(つま)聞(きゝ)入ず袖(そで)を払(はら)ふて去(さ)る
【左丁】
周(しう)の文王(ふんわう)一夜(あるよ)夢(ゆめ)に一の
熊(くま)東南(とうなん)より飛(とび)入 側(かたはら)に
侍(はんべ)るに百官(ひやくくわん)みな拝伏(はいふく)す
と見給ふ覚(さめ)て後(のち)群臣(ぐんしん)
に問(とひ)たまふ散宜生(さんぎせい)が曰(いわく)
熊(くま)は良獣(りやうじう)【左ルビ:よきけもの】なるに飛翼(つばさ)を
生(しやう)ずる事は是わが公(きみ)賢(けん)
相(しやう)を得(ゑ)給ふべし座(ざ)の側(かたはら)
に侍(はんべ)り百 官(くわん)拝賀(はいが)するは
君(きみ)の左右(さゆう)に相(しやう)たる者(もの)也
公(きみ)よろしく東(ひがし)南(みなみ)に猟(かり)
して賢人(けんじん)を求(もと)めたまへ
文王(ぶんわう)の曰(のたまはく)夢(ゆめ)なんぞ信(しん)ず
るにたらん宜生(きせい)がいわく
むかし商(しやう)の高宗(かうそう)は夢(ゆめ)に
良弼(りやうひつ)【左ルビ:よきたすけ】を見て其(その)賢人(けんじん)の