翻刻
なれバ風除木(かざよけき)の無一ッ家多し中に一軒吹潰(いつけんふきつぶ)されて最々哀(いと〳〵あハ)れに
見へたるハ直 往還(わうくわん)の際(きわ)にして藁(わら)家根そつくり落(おち)しと見へ軒口
地に付塚の如く其中に住居(すまゐ)して破風(はふ)を破(やぶ)り戸を立懸(たてかけ)出入の口と
せしさまハ神代のむかし穴居(けつきよ)など斯(かく)有しやと思ひやられそゞろに涙(なミだ)
を催(もよほ)せしとなり
◯ 下練馬村(しもねりまむら)の人の咄し彼の近辺(きんへん)ハ風最強(かぜいとつよ)く大小 諸木(しよぼく)多く折れ物置(ものおき)
小屋ハ一ッも残(のこ)さず畑(はたけ)ハ名物(めいぶつ)の大根芋土に埋(うま)りて畔(くろ)も分(わ)かず家居(いへゐ)も多
く倒れしよし其の人のいひけるハ昼(ひる)ならバ夫々に手当をなして防(ふせ)ぐべけれど
暗夜(あんや)なれバ詮方(せんかた)なく空(むな)しく逃出(にげいで)ミす〳〵に潰せしことなりき我等(われら)も門(かど)
の戸 吹放(ふきはな)されいかにしても留(とま)らぬ故 外(そと)よりそつと建付(たてつく)れバ溝無処(ミぞなきところ)にひつ
たりと戸ハ吹付て在(ある)故にまづ安心して居たる処住居(ところすまゐ)の雨戸二三枚一度にどつ
と吹放(ふきはな)さるゝと唐紙障子悉(からかミしやうじこと〴〵)く吹はづされて舞上る故是ハとても叶ハ
じと皆々(ミな〳〵)を呼集(よびあつ)め裏(うら)の隠居(いんきよ)へ逃往(にげゆき)て一夜を漸(やう〳〵)明せしなり此又 裏(うら)の
隠居といふハ南の小山に大木 生立平常(おいたちつね)ハ夫が為(ため)に日さへ当らず陰気(いんき)
なるが此度斗りハ大幸ひにて最安穏(いとあんおん)に過(すぎ)しといへり
◯一琢舎文魚子の咄しに聞 或家(あるいへ)にて彼の風の夜 若(わか)き者ども大勢
来り咄し居たるが降(ふり)も強(つよ)く追々風も烈(はげ)しけれバ今少々 雨止(あまやミ)して帰れと
主人が止るに任(まか)せ皆々咄し居たるうちに裏窓(うらまど)の戸を吹放すと一時(いちじ)に
表へ吹抜(ふきぬけ)る皆々わつと逃(にげ)出し虚空(こくう)に飛(とん)で帰り仕舞ふ此家ハ夫(ふう)婦
差向(さしむか)ひ子の無も幸ひにて両人逃んと思ひしかど流石(さすが)我家を空(から)に
して何処(いづく)へも逃(にげ)がたく台所(だいどこ)の隅鼠(すミねずミ)入らずと竈(かまど)の間に蹲(うづ)くミ居たり
然るに表に悲敷(かなしき)声して助(たす)けて呉(くれ)よといふ故に聞たる声と立出て