翻刻
見はぐりし故今まで我等が預(あづか)り置しと落せし一朱を覚(おほ)えの反古(ほご)に
包(つゝ)ミしまゝ呉(くれ)しとなん此人も彼の豊島(としま)へ同じく往し人のよしなり実(じつ)
に不思議(ふしぎ)のこととなり
◯ 夫大欲(それたいよく)ハ無欲(むよく)に等(ひと)しく聖人愚人(せいじんぐにん)の如くに見ㇸ大盗却(たいとうかへつ)て人を
救(すく)ふなど皆(ミな)夫々に心中の決着(けつちやく)よりしてなす所か然(しか)るに凡俗(ぼんぞく)少々の
利(り)に迷(ま)ひ欲に引(ひか)され大きく損(そん)をなす事あり又 甚敷(はなはだしさ)に及(およ)んでハ
一命(いちめい)を失ふに至(いた)るこゝに下総国何村(しもふさのくになにむら)とやらに能(よ)き林(はやし)を持たる人
あり其中に大木の杉(すぎ)ありて既(すで)に山師(やまし)の見出(ミいだ)しつ帆柱(ほばしら)になさん
とて其料多分(そのりゆうたぶん)に相談(さうだん)せしかど持主欲心増長(もちぬしよくしんぞうちゆう)して纔金(わづかきん)二両の事
にて終(つひ)に破談(はだん)となりたるが彼(か)の風雨の夜其杉の木 中央(ちうわう)より折(を)れ
砕(くだ)けて今ハ壱兩にも買手(かいて)なく空敷薪(むなしくたきゞ)となりたるよし是 等(ら)ハ
物(もの)の決着(けつちやく)と欲薄(よくうす)くするの教戒(きやうかい)ならめ
◯是ハ広尾(ひろを)より来(きた)れる修験者(しゆげんじや)の咄(はな)なる彼(か)の近所(きんじよ)に彦兵衛(ひこべゑ)
とやらいふ百性のよし女房(にようぼう)を近頃(ちかごろ)もらひたるが物静(ものしづ)かなる生質殊(うまれつきこと)
にハ働(はたら)き人並(ひとなミ)すぐれ近隣(きんりん)の者も是を挙夫婦(ほめふうふ)の中もむつまじく
英たち秋も中ばになる然(しか)るに此彦兵衛が母(はゝ)なる者ハ心立(こゝろだて)よろし
からず兎角(とかく)に夫婦のむつまじきが疾(ねた)ましく思へるにや何かに付て嫁(よめ)を
咎(とが)め打叩(うちたゝ)きなどするのミか追出(おひいだ)さんとする屡(しば〳〵)なりされども彦兵衛も
母が心の悪敷(あしき)ハしりつ嫁のよきハ近所(きんじよ)で知れバ今出してハ母の悪名益(あくめいます〳〵)
人に知(し)られなんと思へバ種々(いろ〳〵)に母をなだめまた密々(ミつ〳〵)女房にハ我よく母
の悪敷をしれど嫁と姑(しうと)の黒白(こくびやく)を明(あか)して人に知らしめんも不孝のわざ
と思ふ故唯々(たゞ〳〵)なだめ置ものゝ 先(さき)も短(みぢ)かき老人(らうじん)なり辛抱為(しんぼうなし)て呉(くれ)よかし